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第61回 清盛と信頼の勢力伸びる。

保元2(1156)年。
清盛夫妻は信西から信頼され、東宮守仁親王(15歳)の乳母となって勢力を伸ばしていました。
5月、亡き鳥羽法皇と美福門院が愛した暲子(あきこ)内親王は21歳で落飾し、八条院と呼ばれる様になりました。鳥羽法皇から贈られた莫大な荘園を保持し、後に反平家の人々を多く匿ったりもしています。生涯未婚でしたが、鷹揚な性格で、侍女たちを全く注意せず、邸の中は常に塵だらけ、女房の衣装も上下ちぐはぐだとかいう逸話が残っています。

10月、信西の労により、長年欠けていた大内裏が完成しました。ここでも財力豊かな清盛がよく協力していました。
「義朝なんぞは廊下一つぞ」信西は高笑いして嘲(あざけ)りました。これを伝え聞いて、「我が家は武門とは縁組せず」と義朝の娘との婚礼を拒否したのに、すぐに清盛の娘を女婿にして恥をかかされていた義朝は更に信西を憎んだのでした。
その年、上西門院(後白河天皇の姉)の武士である19歳の遠藤盛遠(もりとお)が従妹ではあるけれど人妻になっていた袈裟(けさ)という女性に懸想して、その夫を夜に殺そうとして身代わりに寝ていた袈裟を誤って殺してしまった事が話題になっていました。そして夫は「そなたを殺しても妻は戻ってこぬから」と盛遠を許し、盛遠は出家遁走して、文覚(もんがく)と名乗る様になりました。(鎌倉殿の13人で猿之助さんが演じていました)

信頼は反信西で共通の義朝と接近しましたが、抜かりなく清盛の5女の3歳の娘を息子信親と形だけですが、夫婦としました。清盛もこの時は申し出を受け入れました。(後に破棄)

翌保元3年正月、義朝の嫡男(母の身分が高い)の3男は12歳で元服し、烏帽子親には信頼がなりました。そして信頼から「頼」の字を貰い、「頼朝」と名乗りました。頼朝は、信頼が謀反人として処刑されてもこの名を変えませんでした。(続く)


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