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第123回 平家の翳(かげ)り

我が世の春と全盛を謳歌していた平家ですが、安元2(1176)年、転機が来ました。
6月8日、後白河法皇の寵姫であり、高倉天皇の国母でもある建春門院・滋子が倒れて、病に臥したのです。腫れ物のせいだと言われています。
「まだ35歳だから大丈夫でございます」
周囲の声に反して、滋子の病はどんどん重くなり、祈祷の甲斐なく、倒れてからちょうどひと月後の7月8日亡くなりました。

不思議な事に高貴な身分の方の死が続きました。7月には若くして譲位した六条上皇が13歳で崩御しました。9月19日には亡き関白忠通の娘で、常盤御前の主人でもあった九条院呈子が46歳で亡くなりました。
人々は怖れ、9月28日には歌人藤原俊成(63歳)が出家しました。(百人一首「世の中よ道こそなけれ思ひ入る 山の奥にも鹿ぞ鳴くなる)
「本来なら仲の良い西行殿が出家した36年前に一緒に出家しようと思っていたが。しかし、そうしていればたくさんの子を成す事はできなかったしのう」
俊成は苦笑しました。俊成は若い頃、なぜか子はできず40歳前後から次々と子が生まれました。定家は49歳の時の子です。そのため若い頃養子に貰っていた寂連はそれこそ寂しく去りました。
俊成の孫娘は重盛の長男維盛の妻となり建春門院新大納言とも言われ、六代という男子を3年前に儲けていました。また俊成は、清盛の末弟・忠度の歌の師匠となっていて平家との関係は深いものでした。

ところで滋子に溺れていた後白河法皇は、長い夢から醒めた様になり、また別の女性を愛し出しました。そして何でこんなに平家を増長させてしまったのだろうかと後悔する様になったのでした。(続く)

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