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第42回 頼長の罠

正月に仁平と改元された1151年2月。平清盛(34歳)は安芸守に任じられました。これでまた宋との貿易に海上を管理する事ができます。
清盛の所にある老人が願いを言いにやって来ました。
「厳島神社が荒れ果てているので何とぞ修築をお願いいたします」
そう言って老人は忽然と消えましたが、だいぶ後になって厳島神社が秀麗になった時に、
「あれは聖徳太子様のお告げではないか」という噂が立ちました。

その頃、宮中では左大臣頼長(32歳)が権力を振るっていました。何かというと大声で怒鳴り散らし、議論になるとその博学で相手を理路整然と論破し、また気に入らない者は、部下の源為義に任じて邸を打ち壊させるという行動に出ていて「悪左府」と陰で罵られていました。

ある時、頼長は噂を聞きました。「あの左府様でも鳥羽法皇のお気に入りの家成様には手は出せまい」
家成は法皇寵愛の美福門院得子の従兄弟だったのです。
頼長はある計略を思いつきました。

7月、家成の邸の前を高下駄で歩く二人の雑色がいました。
家成の家人たちは侮辱されたと思って、雑色を邸内に連れ込み、さんざんに打ち据えました。
しかし後ですぐに蒼ざめました。雑色は頼長の家人だったのです。
事情を聞いた家成は慌てて、打ち据えた家人を頼長の邸に差し出します。
ところが頼長は家人たちを追い返しました。

そして2ヶ月後の9月、家来の武士たちに命じて家成の邸をすべて破壊させてしまったのです。
「諸大夫の家のくせに」これが摂関家の御曹司を自認する頼長の口癖でした。頼長自身の母は身分が低かったのですが・・・

家成は涙ながらに法皇に訴えました。鳥羽法皇は、
「困ったものじゃのう。しかし最初の非はそちらにあるし・・・」
それを横で聞いていた頼長の異母兄忠通(55歳)は、これを何とか利用できぬかと画策していました。(続く)

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