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第126回 後三条天皇の譲位と崩御

延久4(1072)年正月29日、前関白・頼通(81歳)は宇治平等院にて出家します。様々な思いが胸に去来した事でしょう。

その年の12月8日、後三条天皇(39歳)は東宮貞仁親王(20歳)に譲位し、新東宮に昨年生まれたばかりの実仁親王をつけます。親王の母は源基子で不運は小一条院の孫であったので、藤原氏の勢力低下を更に考えたものでしょう。そして院政の基をしようとしたと思われます。
貞仁親王は白河天皇となりました。蔵人に母方の同い年の従兄弟・公実を登用します。後年、公実の末の娘・璋子を養女とします。この璋子に白河天皇は道ならぬ恋をし、『源氏物語』の源氏と藤壺ばりの不義の子を帝にするという事をやってのけるのでした。ただ『源氏物語』ではほとんどの者にはばれませんでしたが、白河天皇の場合は「公然の秘密」と言った感じでした。更にそれが「保元の乱」という全ての人の不幸になる種を蒔いてしまいました。

翌延久5年正月19日、女御基子は彼女にとって二番目の皇子・輔仁親王を産みました。この親王も苦しんだ一生を送る事になります。

院の庁、院の蔵人も設置し、本格的に院政を開始しようと絶好調の後三条上皇でしたが、3月に病に襲われます。
そして手当の甲斐なく、4月に出家、そして5月7日、40歳で崩御されました。
これを宇治で聞いた頼通はちょうど食事中でしたが、
「日本にとって英君を亡くしてしまった」
と嘆息したと言われます。しかし頼通の死期も迫っていました。(続く)

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