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第81回 道長と三条帝の対立

一条天皇が譲位、崩御され、36歳の三条天皇が即位しました。
道長が依然左大臣として政治を取り仕切っていましたが、道長と三条天皇の間は最初からぎくしゃくしていました。
第一に、新東宮には道長の孫で4歳の敦成親王がなった事。46歳の道長としては三条天皇の代を早々に切り上げて貰い、早く外孫の即位で念願の摂政になりたいのが見え見えです。
天皇は25年も皇太子の座で辛抱した訳ですからいろいろな事をやりたい。両者も最初からうまくいかなかったのです。

それに同じ甥とは言いながら、一条天皇の生母詮子は道長の姉として全面的に応援してくれ、伊周とどちらが関白を取るかでは味方してくれました。(一条天皇の抵抗で内覧に収まりましたが事実上勝利でした)。それに対して三条天皇の生母超子は、道長が17歳になった正月に頓死し、あまり縁がなかったといえます。

立后問題でも揉めました。彰子が皇太后になり、次女妍子は女御から中宮に昇りました。三条天皇は古くからの愛妻娍子を皇后にしてほしいと道長に言いました。すると道長は、
「娍子様の父済時(なりとき)様は、大納言で終わったお方。大納言の姫が后に昇った例はございませぬ」
と認めません。天皇は済時に右大臣を贈って何とか立后にこぎつけます。しかし道長は嫌がらせをしたのです。

ある夜、香子の再従兄でもある大納言実資(さねすけ)が彰子の住まう枇杷殿に謁見を求めてやって来ました。香子が応対し、彰子の元へ案内しました。
実資は御簾越しに訴えました。
「皇太后様、この前の娍子様の立后の式といえばそれはひどいものだったのでございます。立后の式の時に左府様(道長)は中宮妍子様の参内の式を同時に行われたのです。ほとんどの公卿は左府様に追従してそちらに行ってしまいました。私はちょうど風邪で家で臥せっていたのですが、急遽、立后の式を執り行ってほしいという勅使が来たのです。無理に行くと、立后の式というのに参列者は私を入れて僅かに五人。おまけに雨が降って来て、それは寂しいものだったのでございます。私は、左府様の所に少しでも公卿を回して欲しいと使いを出しました。ところが向こうでは酒宴が開かれていて、使いは酔った公卿どもに逆に罵られ笑われ、物まで投げられて追い返されたという事です・・・古い話ですが、亡き皇后定子様が参内の時は左府様は宇治にほとんどの公卿を引き連れて遊びに行かれたのでした・・・」
一通り実資の訴えを聞いて、彰子は、
「分かりました。私から左府に申し上げておきましょう」
と静かに言いました。小柄ながらもう貫禄がある態度に実資も香子も感服しました。
「有難うございます」と実資は平伏しました。
天下の道長に正面切って諌言(かんげん)できるのは今は彰子以外にないと香子は思うのでした。
また香子は「若菜」から「柏木」そしてその続編を書くのに勤しんでいました。

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