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第64回 高子の四十の賀と母の死

陽成天皇の元服式があった元慶6(882)年の3月、花の宴に合わせて、清凉殿で皇太后高子の四十の賀が盛大に行われました。(本当は41歳でしたが何かの事情でこの年にした?)
その時に、業平の異母兄・在原行平(65歳)の外孫で8歳の貞数親王(清和天皇皇子)が陵王の舞いを見事に待って、行平は感激の余り孫の親王を抱きしめました。『伊勢物語』は意地悪にもこの親王の実父は業平とも噂されていたなどと書いていますが。

同じ3月に、無位から従五位下に叙された女性がいます。高子の乳母だった安倍睦子です。業平との出奔を手引きして以来どうなっていたのでしょうか?解雇されたのかそのまま留まっていたのか、あるいは解雇されたのがまた呼び戻されたのか不明です。年齢も不詳ですが、この時、58歳の息子がいるのでそれなりの年齢でしょう。
高子から位階を叙されて睦子は感涙した事でしょう。

4月に位記授与という今で言えば、叙位・叙勲の儀式を基経はボイコットします。基経特有の嫌がらせ?高子はかつて蔵人頭任官で争った、基経推薦の源興基を任じ、宥和策を取ります。

この年に、高子の2番目の皇子、貞保親王(さだやす:12歳?)も元服しています。基経は可愛い外孫の貞辰親王(9歳)を抱えていて、東宮も空位でしたし、何となく不穏な空気が宮中にありました。

そして基経と高子を結ぶ最後の線が消えました。
二人は同母兄妹で、その母は乙春(たかはる)と言います。
本来なら息子は太政大臣、娘は国母で皇太后。日本で最高の栄誉を持つ兄妹の母として嬉しい筈ですが、二人の不仲は有名であり、母親としてもずっと心配で助言をしていたと思います。
しかし乙春は翌年の4月に二人の仲を案じながら亡くなりました。

ここで基経は何か考える事があった様です。出仕も間遠でしたが、8月になって完全に里居となり、堀河院に籠ってしまいました。(続く)


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