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第73回 阿衡(あこう)事件、こじれる。

仁和3(887)年12月、太政大臣基経(52歳)は、新たに任じられた「阿衡」というのが「殷(いん:古代中国)の閑職」として「閑職ならば出仕に及ばず」と、堀河邸に引き籠ってしまいました。基経が陽成天皇の時にもやった、サボタージュです。
そのまま年が明けて、諒闇(天皇の親が亡くなる事)で、宇多天皇(22歳)は喪に服す感じで良かったのですが、基経の籠居は依然として続きました。
基経としては若い宇多天皇サイドに「調子に乗んなよ!」と一発お見舞いしたという感じでしょうか。基経の力を見せつけたのです。

5月に入っても事態は好転せず、朝廷は次第に不安と混乱で毎日の様に会議をしました。長になったのは左大臣源融(67歳)です。融もかつて基経の専横に籠居していた事があったり、源氏から帝位に即いた宇多天皇を最初は快く思っていませんでしたが、ようやく基経が宇多天皇の即位に心から賛成したのではないという事が分かりました。融は何とかしようとしたのです。

陰暦の5月ですから今の6月。京の夏はとても蒸し暑く、公卿たちは毎日の様に着地点が見えない会議を繰り返していました。
そして6月。ついに橘広相が悪かったという事で、宇多天皇の綸旨は取り消される事になりました。天皇の命令は絶対で取り消される事はなかった訳ですからこれは大変な事で宇多天皇は寝込んでしまいました。
基経には改めて、最初の「関白」が下される事になりましたが、基経は尚も籠居して、橘広相の罪名を要求します。

ここで10月、讃岐から上京してきた人物がいます。菅原道真(44歳)です。道真は旧知の基経に書状を書きます。「これ以上やると藤原氏の名前に傷がつきます」そして自分の後任に文章博士となった橘広相を救おうとしたのでした。

基経はかつて道真から学問を教えて貰い、文書の代筆もよくやって貰いました。
「ここらで矛を収めるとするか」
基経は広相を不問にし、出仕する様になりました。この時、道真と会ったかどうかは記録がありません。

この顛末は、宇多天皇に、「天下の権力者基経に意見できる道真はすごい」という認識を植え付けたでしょう。

基経はこの関白という言葉を気に入り、ずっと使いました。
そして尚侍淑子の必死の仲立ちにより、娘の温子(はるこ?あつこ?17歳)を宇多天皇の女御としました。
「これが目的だったのか!」と人々は思ったのでした。(続く)

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