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第50回 行平と業平

清和天皇は、応天門の変以後、精神不安になり、女色にその救いを求めました。今でも「酒、女、クスリ」というのが逃げ場所になる事が多いですが・・・虚弱で31歳で崩御されたにもかかわらず、后妃の数は20数名、皇子女も20名を超えています。
記録を見てもほとんどの公卿が娘を入内させており、良房や基経も黙認していたというか、奨励していたフシもあります。それは高子の気持ちなど全く考えないものでした。(兄の基経さえ2人もの娘を入内させているので)

参議となっていた在原行平(58歳)も御多分に漏れず娘文子を更衣として入内させ、貞観17(875)年に皇子が生まれています。行平の喜びが『伊勢物語』79段に記されています。
行平「わが門に千(ち)ひろあるかげ植えつれば 夏冬たれか隠れざるべき」-わが一門に千尋(ちひろ)もの蔭を持つ竹を植えたから、夏も冬も一門の誰がこの蔭に守られないことがあろう。皆必ず繁栄するだろうー
「尋(ひろ)」が両手を広げた長さだという事を今回改めて再確認しました。千尋というのはすごい長さですね!

ただ『伊勢物語』の作者(後で注釈を入れた人の方)は意地悪というか、悪意があります。その段の最後に、「この貞数の親王。時の人(当時の人は)、中将の子となむいひける。(本当は業平の子なのだ)」とあります。後に陽成天皇も本当は業平の子だから退位させられたのだという噂も立てられたりしています。やはり貶める目的があるのではないかと思います。まあ『源氏物語』でも光源氏と藤壺が密通の子を何食わぬ顔で冷泉帝として即位させていますが・・・

業平の方は相変わらず、高子の傍に付き従う機会が増えてきます。
翌年11月、大原野神社に高子(35歳)が参詣した時に、近衛として付き従った者たちに褒美が下されましたが、業平(52歳)だけは高子の御車から直接に布を頂戴しました。業平はその布を肩にかけ、またいつもの様に意味深な歌を詠みます。
『伊勢物語』第76段に記されています。
業平「大原や小塩(おしお)の山も今日こそは 神代のことも思ひいずらめ」-この大原野の小塩の山も、藤原氏の妃が参詣なさったので、今日こそは藤原氏の始祖の神代の事を思い出しているでしょうー貴女も私との昔の事を思い出しておいででしょうねー
いつも昔の恋をさりげなく、ねちねちと詠う業平でした。その陰で清和天皇は譲位の事を真剣に考えていました。(続く)

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