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第121回 康平7年のこと

康平7(1064)年3月、前九年の役を終えた源頼義(77歳)が京に凱旋してきました。そして頼義の若い息子・義家(26歳)が男ぶりがよく精悍で京の人々の人気を博していました。
報告命令を受けた関白頼通(73歳)や大宮彰子(77歳)は安堵した事でしょう。

5月15日、小一条院の子だった参議源基平が39歳で亡くなります。子女の内、10歳の男子は仏門に入れられます。それが後の行尊(もろともにあわれと思へ山桜・・・)になります。またその弟・源行宗は後に兵衛佐(ひょうえのすけ)という女の子を養女としますが、彼女は崇徳院の傍に仕え、重仁親王を産んで、保元の乱に巻き込まれるという生涯を送ります。

11月9日には高松方の末っ子、長家が60歳で亡くなります。高松方と言っても、道長の配慮で?鷹司方倫子の養子になっていました。鷹司方と高松方の融合の意味もあったのでしょうか。しかし頼通・教通と能信の対立は依然としてありました。長家の子孫から俊成・定家そして冷泉家と繋がっていきます。

11月29日には頼通の正室隆姫(70歳)が出家します。摂関家の正室として、先代の倫子とは違って子を成さず、それが摂関家衰運の因とも陰で言われました。彼女の心境はどうだったのでしょうか?

12月13日、頼通は「氏(うじ)の長者」を弟教通(69歳)に譲ります。しかしこれは何か考えがあるようです。頼通は関白を若い後継ぎ・師実(23歳)に譲りたかったのです。これで後に揉める事になります。頼通は「終活」に入っていくようにも見えました。時代は動いていきます。(続く)

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