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第61回 和泉式部との仲

紫式部と和泉式部が親友だったとする小説もあったりしますが、本当のところはどうなのでしょう?
それに和泉式部は寛弘6年の4月に出仕し始めて、年末には老いた藤原保昌と結婚して任国の丹波に行っています。だから9か月間の同僚でした。
でもこんな短い期間で道長がよく才女の和泉式部をやめさせたと思いませんか?それに和泉式部はあまりこの結婚に乗り気ではなかった様で、辛かったというのも後年吐いています。

それでは誰か影でこの結婚をさせた者がいるのでしょうか?
私は拙著でそれを紫式部と想定して書きました。
まず『紫式部日記』の下りから。

香子は道長に尋ねました。
「日記ですが何を書いても宜しいのですか?」
「うむ・・・まあそなたに任せる」

ここで3人の才女と言われる女房の論評が始まります。(抜粋)
「・・それにしても和泉は、とても不埒な一面があるものの、気軽にすらすらと書いた手紙に、その筋の才能のある人で、・・・ともかく口まかせに歌が出てくるのだろうとね、思われるようなタイプなのですよ、『立派な歌人だなあ』とは思われません」(萩谷 朴 現代語訳:角川書店)

まあ誉めたりけなしたりしている訳ですが、「原文:けしからぬ方こそあれー不埒な一面」とか最後の「立派な歌人だとは思わないわ」ー私の敵じゃない。と断言しているところなど、本人と一緒に中宮の元で仕えているのにすごいなあ、と思います。それだけ親しかった?という線もないではないですが・・・

とにかく香子は頭の良い女性、どうやって合法的に和泉式部を目の前から追い出せるかを考えていたと、私は思います。(私見)

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