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第46回 宮中出仕の時

寛弘2(1005)年。香子36歳。娘賢子7歳。
香子の『源氏の物語』の執筆は進み、「桐壺」から始まって、「若紫」、朧月夜と出会う「花の宴」、「葵」そして六条の御息所との別れを描いた「賢木」を経て「須磨」「明石」まで進んでいたのではないかと思われます。(「紅葉賀は不定、藤壺との情事を描いた「輝く日の宮」があったという説もあり)
現代でも『源氏物語』はとても長いので「須磨」か「明石」まで読んで挫折してしまう人が多いという事です。(若い時の私もその1人!)それを「須磨帰り(返り)」「明石帰り(返り)」と言うそうです(笑)

その年の秋も終わった10月の末、父の為時が沈痛な面持ちでやってきます。左大臣道長から中宮彰子の女房として出仕の依頼が来たというのです。
先日、宴があって香子の『源氏の物語』が話題となったからでした。

道長としては、皇后定子に清少納言がいた様に、18歳の中宮彰子にも清少納言に匹敵する才媛の女房が欲しいという事です。
今をときめく『源氏の物語』の作者を娘の女房に雇う。道長だからできる事です。今なら「芥川賞作家」の女性を娘の家庭教師にという所でしょうか。

「道長様には9年前に越前守を世話して頂いたし・・・」
と為時は言います。そうです。最初、淡路守になって意気消沈していた為時は数日で大国の越前守に入れ替えが決定したのでした。

「こういう事だったのね」
香子は思います。最初から私に目を付けていて網を張っていたのだ。
弟の惟規(のぶのり:32歳?)も出仕しているのでこれを断ればどうなるか分からない。
香子は、渋々、為時に出仕を内諾する事を伝えます。

11月15日に今内裏である一条院は焼亡し、吉方だと言うことで東三条院が選ばれ、一条天皇と中宮彰子以下が遷ります。東三条院はかつて一条天皇の母后詮子が住まっていたところです。

香子の出仕はその年の(寛弘3年という説もあるが2年が有力)大晦日、12月29日と決定します。賢子を抱きしめ、心配そうな為時と惟規に見送られて香子は恐らく牛車で東三条院へ向かいます。(続く)

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