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第105回 清少納言の消息とさすがの機智

治安4(1024)年3月3日、一条天皇と皇后定子の第一皇女である修子(ながこ)内親王は29歳で出家します。
すでに両親は亡くなっており、弟敦康親王も6年前、末の妹の媄子内親王は16年前に亡くなっています。出家した動機は分かりませんがひょっとしたら母とも自分とも仲の良かった清少納言が死去したからかも知れません。(1025年に死去したと言う説もあり)内親王は1049年、54歳まで生きています。

修子内親王が生まれた年、伯父伊周・叔父隆家は流罪となって、中の関白家の威光は傾いていました。数え5歳の時に母定子が亡くなって、やがて敦康親王が彰子の御所に引き取られたのに対して、本人の意思かどうか、叔父隆家の邸に行っています。敦康親王とは離れ離れでしたが、親王が20歳で亡くなった時は深く嘆き悲しんだと言われます。
やがて隆家が大宰府に眼病の治療も兼ねて赴任する前後に三条の宮に遷りました。(『小右記』)財産は父一条天皇からたくさん貰っていました。

母定子の一番の女房であった清少納言は定子の死後宮中を去ったと言われます。しかし1000年以上前の話ですから敦康親王にしばらく仕えていたという説もあり、大恩ある定子の遺児にちょくちょく挨拶に来ていたと考えても不思議ではありません。
清少納言は宮中退去後、かなり落ちぶれていたという説もあり、香子の『紫式部日記』では「行末うたてのみ侍るは・・・そのあだになりぬる人のはて、いかでかはよく侍らむ・・・」-将来碌(ろく)な事はありません・・・その軽薄になってしまった人の終末が、どうして良い筈がありますかーとこてんぱんに酷評されています。もう日記を書く頃にはすっかり落ちぶれていたのでしょう。ちょっと「死者に鞭打つ」感じですが・・・

藤原棟世というだいぶ年上の中流貴族と再婚して、小馬(こまの)命婦という女児を儲け、一時棟世の任地摂津に居たという話もあります。小馬命婦は彰子に仕えています。ただ『枕草子』には最初の夫・橘則光と離婚後も仲が良かった話がありますが、棟世の事は出て来ないようです。
これは書くまいか悩んだのですが、晩年の逸話として、清少納言の兄・致信(むねのぶ)が1017年3月に大和の国の利権争いで源頼親(大和源氏)の郎党に殺害され、近くにいた清少納言は52歳で出家していて男と間違われ殺されそうになった際、さっと着物の裾を捲って男ではないと示し、難を逃れたと言います。とっさの機智は流石ですね。
そう言えば、幕末の坂本龍馬の妻おりょうは、龍馬が新選組に襲われた時入浴中でしたが、全裸で敵の前に仁王立ちになり、皆が呆気に取られている隙に龍馬が素早く逃げたという話がありました。女性はいざとなれば強いですね。

この年、賢子(26歳)は今度は藤原兼隆(41歳:道兼の子)と恋愛し、女児を産んでいます。香子が生きていれば抱いたと思います。
また関白頼通(33歳)は妻隆姫(30歳)の姪に手をつけ、懐妊させているというのが話題になっていました。

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