見出し画像

第50回 後白河法皇(15)崩御の時

源頼朝が「法皇様の身は全力でお守りいたします」と平伏して鎌倉へ去ったのを見届けて、建久(1191)年の後白河法皇はご機嫌でした。

木曾義仲に焼き討ちされた法住寺殿の再建に乗り出します。かつて平清盛の義妹滋子を寵愛した思い出の御殿です。
12月に再建なり、16日に法皇は新造の法住寺に遷ります。
ところが不死身であった法皇もそれから間もなく病に陥ります。
法皇の病は腹水病と言われ、腹部が異常に膨らむものでした。
29日には崇徳上皇、安徳天皇、藤原頼長を祀り、怨霊を鎮めようとします。

特に崇徳上皇に対しては実の兄であり、可愛がってくれて同じ御殿にまで住まわせて貰ったのを手のひらを返す様に(得意ですが)、裏切り、更に流した四国から寺社に納めて欲しいと送られてきた写経5巻を、近臣の「呪いがあるかもしれません」の助言を聞き、突き返した事も今更のごとく思い出しました。そして怨念のごとく崩御した事も。
「兄上、お許し下さい!」そう祈ったかも知れませんが、法皇の病は重くなっていきます。

新年になって、法住寺殿に来たのが悪かったのかと、方違えで元の六条殿に法皇は戻ります。土御門通親を使者として伊勢神宮に奉幣したりします。
2月18日に孫の後鳥羽天皇が見舞いに来たとあります。
13歳の後鳥羽天皇は笛が上手く(一条天皇も上手かったとか)、その笛で後白河法皇は気丈にまた得意の今様を歌い、舞ったとも言われます。
けれど3月13日、後白河法皇は66歳で崩御します。
財産は平等に分けており、全てを美福門院に譲渡して鳥羽法皇を引き合いに出して普段後白河法皇に批判的な九条兼実もその点は評価しています。

その兼実の進言で7月に、頼朝に征夷大将軍がついに宣下されます。8月には頼朝に次男実朝が生まれ、鎌倉は万々歳でした。

諮らずして帝位に即い、数々の敵を倒した後白河法皇。しかし本当は今様が大好きな皇子。『梁塵秘抄』の編纂にも力を注ぎました。その詞「遊びをせんとや生まれけむ」に法皇の人生観が象徴されています。
法皇が崩御してから以前の様に優遇されなくなった傀儡(くぐつ)らが法皇と一緒に今様を詠った昔を懐かしんだと言われます。
まさに「異色の帝」だったのでしょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?