見出し画像

第47回 東三条院での出来事

東三条院に出仕した香子は、恐らく几帳で仕切った小さな局を与えられ、上臈の女房が説明しにきたでしょう。女房名は「藤式部」となりました。
これは父為時がかつて式部丞をやっていたからと思われます。
道長の正室倫子は香子の再従姉妹です。後年、倫子の方から香子を訪れた事もあったので、拙著の中では倫子から来た事にしました。娘が世話になる訳ですし。再従姉妹と言っても、倫子は元々大臣の娘、そして今を時めく左大臣道長の正室でし。受領の娘である香子とは比べ物になりません。しかし倫子はにこやかな笑顔を見せた筈です。

明けて元旦。香子は40人もの女房の最後尾でしずしずと一条天皇と中宮彰子に新年の挨拶に行った事でしょう。そこで図らずも天皇からお声がかかります。
「そなたは『日本紀』をよく読んでおるな。物語を読んでそう思うよ」
亡き定子からの薫陶で、27歳の天皇は文学好きだったのです。
思わぬ天皇からのお褒めの言葉で、女房たちの嫉視は募ります。早速、
「日本紀の御局」という渾名がついてしまったと、香子は後年日記に書いています。中宮彰子からも勿論声はかかったと思います。
その様子を道長夫妻は喜んで見つめたでしょう。清少納言はその時、敦康親王付きでいたでしょうか?

天皇付きの女房で「源典侍(ないしのすけ)」という女房がいました。実は香子の嫂(あによめ)に当たる人でした。亡き夫宣孝の兄説孝の夫人です。しかし恐らく香子は嫌みをくどくどと言われたでしょう。なぜなら、為時からの国守交替訴えを取り次いだのは典侍だったし、そのお蔭で典侍の兄国盛の越前守を取り上げて為時に渡したのです。
がっくりする国盛は体調を崩し、播磨守を与えられたもののその年の内に亡くなったのでした。香子は知っていましたが、改めて言われると頭を下げるしかありません。

そしてその2日後の1月3日。歌会が終わった所で香子は突然と実家の堤邸に帰ってしまうのです。そして2か月も自宅にいるのです。

これは余程の事がないと看過されるものではないでしょう。
たった3日で帰るとは、宮中の女房暮らしが合わなかったのか、原因は不明ですが、私はその前夜、1月2日の夜に道長にレイプされたのではないかと推測します。(続く)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?