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第60回 九条道家(1)ー最終的にはツイてない男?

だいぶ『平家物語』からは逸脱してますが「誕生」したのはこの鎌倉中期なのでご容赦を(笑)
摂関家の嫡男忠通の四男基実が近衛家、五男基房(松殿)は木曾義仲と結んで失脚。そして六男兼実が九条家を興しました。近衛家と九条家が対抗しますが近衛家から鷹司家が分立。九条家から更に二条・一条が分立し、五摂家になっていきます。

道家の人生も波乱万丈に富んでいました。15歳で兼実の死を受けて九条家の嫡流となりましたが、妻の父西園寺公経の後押しもあって順調でした。
18歳の時、姉の立子が当今(とうぎん)順徳天皇の中宮よなり、やがて皇子も生まれます。

1219年、27歳の時、鎌倉で源実朝が暗殺され、4代将軍がいないという事で、以前、後鳥羽上皇は自分の皇子をやってもいいと言っていましたが一転して拒否。結局道家の母が頼朝の姪であるので(妻の母も頼朝の姪。姉妹であった)、三男の数え年2歳の三寅が鎌倉に貰われていきました。
舅の公経は頼朝の姪を妻に迎えていた事もあって鎌倉寄り。後鳥羽上皇に警戒されます。

そして1221年承久の乱。公経は後鳥羽上皇に捕縛されますが、すでに情報を鎌倉に流していました。
そして上皇方は敗北。三上皇が流され、道家は加担はしていなかったものの、摂政をしていたという事でしばらく謹慎させられます。

しかし舅の公経が一転、京の支配者となり、道家を引き立ててくれます。
道家の娘靖子は、承久の乱後即位した、後堀河天皇の中宮となります。
この入内の時、藤原家隆が「風そよぐならの小川の夕暮れは みそぎの夏のしるしなりける」の屏風歌を詠み、百人一首に残っています。
靖子は皇子を産み、1232年、僅か2歳で四条天皇となり、40歳の道家は外祖父として摂政になります。この時が道家全盛の時でした。

けれど不幸の影が忍び寄ってきます。四条天皇即位の翌年、娘靖子が皇子死産で亡くなりました。更に翌年、天皇の父、後堀河上皇も23歳の若さで崩御しました。
更に翌年、頼りにしていた長男教実もが26歳の若さで亡くなってしまいます。世上では後鳥羽上皇の祟りと言われていました。
道家は後鳥羽上皇と順徳上皇の帰京を幕府に申請しますが却下されます、(土御門上皇はその4年前に崩御)

1236年に道家は東山と伏見の間に壮大な東福寺(名前も東大寺と興福寺から摂ったと言われます)を建立しました。打ち続く不幸を払って貰いたかったのでしょうか。今でも通天橋から見る紅葉は素晴らしいですね。

1241年道家は、亡くなった長男教実の娘で9歳の彦子を、11歳の四条天皇の女御とします。また対抗勢力の近衛家をなだめるために自分の娘仁子を近衛兼経の妻とし摂政も譲っています。

しかし翌年1月9日、とんでもない事が起こります。12歳の四条天皇は蝋を床に塗って臣下や女房が転ぶのを見て喜んでいましたが、何と自分が転倒。頭を強く打って崩御してしまいます。

もちろん四条天皇には子供もなく、弟もいませんでした。
道家はここで最大のミステイクをしてしまいます。次の天皇に鎌倉幕府に相談なく順徳上皇の皇子忠成王(21歳)を決めてしまうのです。忠成王の母は道家の娘ではなかったですが、懇意であった順徳上皇の皇子にしたのです。
これには執権北条泰時が待ったと入れました。

承久の乱には積極的でなかった土御門上皇の皇子でまだ仏門に入っていなかった邦仁王(23歳)を指名したのです。泰時は、順徳上皇の皇子を天皇にしたら、上皇が佐渡から帰京してくるかもしれないと思ったのです。幕府転覆を実行しようとした人は許せません。(後鳥羽上皇は3年前に崩御していました)

舅の西園寺公経は当初道家に協力していました。しかしこの状況を見て、道家に相談せずに邦仁王を迎えさせ、縁戚の家で践祚させ、3月には呆気に取られる道家を尻目に即位式を挙行し、後嵯峨天皇とします。

そして近衛兼経から関白を道家の次男ながら不仲だった二条良実に替えています。(道家はなぜか次男を愛さず、長男と四男を愛していた。三男は鎌倉に行っている頼経)
更に公経は孫娘の姞子を6月に後嵯峨天皇に入内させます。
舅の裏切りに傷つく道家でしたが更に不幸の追い打ちが待っていました。(続く)


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