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第102回 刀伊(とい)の入寇(1019年)

寛仁3(1019)年3月頃、香子はどこに居たでしょう?まだ大宮彰子の御所内かそれとも「宇治十帖」を書き上げたので、また堤邸かそれこそ宇治の別邸にでも引き揚げたのでしょうか?彰子の傍には娘の賢子(21歳)がいたし、余りに母子同じ所に勤めるのも香子の性格からしたら嫌だったでしょうか?
3月21日に道長は出家し、同じ25日に小一条院の母娍子も出家します。
4月10日に、前述しましたが、小一条院の見捨てられた妃延子が吐血して亡くなります。

その直後、恐ろしい知らせが京を震撼させます。大陸から刀伊が50隻・3000人の軍で突如として対馬・壱岐を襲い、多くの人々が惨殺され、また多数が拉致されたという事でした。主に女真族が中心でしたが、「東夷(とうい)」からトイと発音され、更に「刀伊」になったのかも知れません。

そしてその時、眼病の治療のため大宰府にいた藤原隆家は権帥(ごんのそち)でしたが、撃退の総指揮官として大活躍したという事です。昔から喧嘩っ早かったですが、貴族より武士の方が似合っていたかも知れません。
久々に中の関白家の勇姿の話を聞いた人々はどう思ったでしょうか。

隆家らの尽力で博多上陸に失敗した刀伊は、対馬を再襲撃した後、朝鮮半島へ撤退しました。京の人々は慣れない戦争でしたが解決して安堵した事でしょう。
隆家はやがてまた京に還って来ますが、子孫の一部は九州へとまた渡り、菊池氏として南北朝時代、南朝方として活躍しています。また京では坊門・水無瀬、平清盛の継母・池禅尼、源実朝の正室、平治の乱の藤原信頼など多彩な子孫を出しています。


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