第105回 陽成院の崩御と忠平の死
天暦2(948)年、懐妊していた女御安子(22歳)は4月に出産しましたが皇女だったので、摂関家の忠平(69歳)、安子の父、師輔(41歳)は落胆しました。忠平は師輔を慰めました。
「まだ安子も若いし、皇子誕生はあろうぞ」
実際その通りになりましたが、翌年正月から忠平は病に臥しました。
忠平は謹直な長男実頼(50歳)よりも清濁併せのむ性格の次男師輔を枕元に呼びました。
「陽成院様より、まろが早く亡くなるのは無念じゃ。我が父基経公の名誉を守るためにも、陽成院様を悪しく伝える事頼むぞ」
師輔は頷きました。しかしまもなく陽成上皇もさすがに病に臥しました。
「どちらが先に・・・」
人々は噂しました。8月14日、基経の四男に生まれながら、功成り名を遂げた忠平は70歳で亡くなりました。「貞信(ていしん)公」と諡(おくりな)されました。善良な方と伝えられていきます。
遅れて9月20日、陽成上皇は出家し、29日に82歳で崩御しました。
陽成上皇は多くの目の不自由な人を庇護していましたが、崩御を聞いて泣きながら、数珠つなぎに見えぬ眼で、御所の方に手を合せていたという事です。(東大寺の僧の記録)
師輔は、いよいよ機会が来たと思いました。しかし陽成上皇の息子の源清蔭(66歳)が大納言としています。しかしその清蔭も翌年7月亡くなってしまうのでした。陽成上皇の母高子と伯母恬子内親王の醜聞を記した『伊勢物語』がいよいよ公開されます。(続く)