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第52回 伊勢大輔

香子が復帰した翌年、寛弘4(1007)年正月5日、かねてから懐妊中だった道長の正室倫子(44歳)が6度目の出産で土御門殿で無事女児を授かりました。
嬉子姫。後朱雀天皇が東宮の時、妃となり、後の後冷泉天皇を産みますが19歳で亡くなってしまいます。倫子はもう2男4女を儲けました。
ライバルの高松殿明子は4男2女を産んでいます。
香子は後年、夕霧の正室雲居の雁と藤典侍が競う様に子供を産んだモデルとしたようです。

母の高齢出産という事で、娘の中宮彰子も実家に駆け付けました。香子も付いて行ったでしょうか?(記録はありませんが)

ここで道長は嘆きました。「中宮が母の出産を手伝うとは日本国初めてという事で嬉しいが、中宮様の懐妊がまだなのは寂しい」
彰子は20歳。入内9年目を迎える事になります。

1月15日除目が発表され、香子の弟惟規(35歳)が蔵人(天皇の秘書官)に抜擢されます。香子は、自分を評価してくれて弟が出世したのかと嬉しくなります。ただ同時に蔵人となったのが、中の関白家の何かと噂のある道雅(26歳)で気がかりでしたが一条天皇の時は何も事件は起こりませんでした。

3月、興福寺からの八重桜の受け取り役に香子が選ばれましたが、香子は辞退しました。
「新参の者がするというきまりですが、もう私は実質2年目なので・・・」
昨年は出仕してすぐに実家に帰ってしまったのだった。それにもう38歳なので表舞台には立ちたくなかったのです。
改めて、今年入った19歳の若い伊勢大輔が選ばれた。歌人・大中臣輔親の娘です。祖父には、梨壺の五人であった、大中臣能宣がいます。(「みかきもり衛士のたく火の夜は燃え 昼は消えつつ物をこそ思へ」百人一首)
能宣は、厳しい父から歌のできが悪いと枕を投げつけられたそうです。

拙著では心配した大輔が、香子の元を訪れいろいろとアドバイスや激励を受けるという設定にしました。

当日、大勢の人が見守る中で、大輔は朗々と歌い上げました。
「いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな」
人々はこの歌に感動し、宮中全体が鼓の様にざわめいたという事です。

更に中宮彰子は、香子に次の歌を詠むのを勧め、結局香子は詠んでいます。
「九重ににほふを見れば桜狩 かさねてきたる春のさかりか」
(今、宮中で咲いている八重桜を見ると桜見物の春の盛りが再びやってきたようです)
香子も喝采を受け、受け渡しの宴は晴れやかに終わりました。
若い伊勢大輔は、後で香子にお礼に来るという設定にしました。

この場面を、ある解説書ではわざと紫式部が伊勢大輔に試したという解釈をしたものもありますが、後年宮中出仕を辞めた二人が清水寺で偶然会って親交を認め合ったという事があるので、香子は好意を持っていたのかな?

ところで八重桜というのはその時は奈良にしかなく、もちろん花弁がたくさんあって華やかというのもあるのですが、亡くなったうちの母が、
「なんかぼやっとした感じやね」と笑いながら言っていたのを思い出します。

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