第105回 音戸の瀬戸(2)
清盛はひとまず京に帰り、そして長寛2(1164)年10月より大々的に音戸の瀬戸の改修に着手しました。
船を通りやすくするために、幅を広くし、海底を深くする。
清盛は亡き父忠盛の遺言を思い出しました。
『民のためになる政(まつりごと)をせよ』
工事は昼夜を撤して行われました。その時、海の神に対して、人柱(ひとばしら)を捧げようという話になり、民の1人が捕えられて今にも海に沈められようとしていました。清盛は気づきました。
「何をしておるのじゃ!」
「こうするのが仕来たりでございます」
「馬鹿を申せ。そんなものはおかしい。お経を書いたものを沈めよ」
命を助けられた男とその妻、一族は清盛に手をつき、涙して感謝した。
「大夫(だいぶ)様、有難うございます」
当時、清盛は皇太后宮権(ごんの)大夫なのでこう呼ばれていました。
「何、当り前の事をしたまでじゃ」清盛は笑っていました。
※12年ほど前、私が拙著『清盛の時代』の取材のため、改めて広島県のあちこちを巡っていると「清盛神社」や「清盛クラブ」など、いまだに平清盛への敬愛がある事を感じました。2012年の大河ドラマ『平清盛』では主に関東から「あんな悪人をどうして主人公にするのだ?」というクレームが多く来たそうですが、少なくとも西日本の人々は清盛の業績に感謝している気がします。(続く)
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