見出し画像

第31回 「西行(さいぎょう)」の誕生

平清盛と、佐藤義清(のりきよ・後の西行)は同い年で、鳥羽院の下北面の武士を一緒に務めていた時期もあり、仲が良かったと思われます。

結婚もほぼ同時期くらいで、清盛は保延3(1137)年20歳の時に高階基章の娘(前述しましたが、前関白・藤原忠実の娘の可能性あり)と結婚して翌年に長男・重盛が生まれています。
義清は保延6年の時点で、物語などでは3歳の娘がいた(男子もいた?)という事です。

そして、この『源氏物語絵巻』作成で賑わっている保延6年10月15日、佐藤義清(23歳)は突如として出家してしまうのです。
表向きは親友が亡くなったからという事ですが、何か高貴な女性に失恋したのではないかという説が有力です。
『百人一首』でも「嘆けとて月やはものを思はする かこち顔なるわが涙かな」-嘆き悲しめ!月がそう言って、私に恋の物想いをさせるのだろうか、いやそうではない、そうではないのにまるで月のせいのようにこの私の涙はこぼれ落ちていくのだー
何年たっても、恋しい女性を思って涙する西行の姿があります。

この高貴な女性は、待賢門院璋子ではないかという説があります。義清の歌の評価は高く、一度鳥羽院の御殿の障子に10首ほど書いた事があるそうです。璋子もこの歌の上手い義清という武士の存在は知っていたでしょう。
璋子は召し、義清はその余りの美しさに我を忘れた事でしょう。
忘れるために結婚したのか?それとも結婚してから姿を見たのか?すべては謎ですが。
更に義清は璋子と交渉があったのではないかという説もあります。
「あこぎの浦」とだけ書いた手紙をある女性から貰ったのです。「あこぎの浦」-密漁が続く伊勢の海の事で、しつこいのは駄目ですよ、という意です。璋子の気まぐれだったかも知れません。

義清はとにかく璋子の事を思い断つために出家しました。幼い女の子が行かないでと足にまとわりつくのを蹴飛ばす場面も描かれています。
1140年に出家し、西行となった義清はその後50年も生き続け、旅と歌に生きます。
1145年に璋子が亡くなった後は、不遇な崇徳上皇の相談相手となり、保元の乱で敗れ、讃岐に流され崩御した崇徳上皇の陵墓を1168年(1167年とも)訪ねたと言われています。
当然1181年の清盛の死、そして1185年壇ノ浦での平家滅亡を見、鎌倉の源頼朝とも面会し、奥州の藤原秀衡(同族?)とも会ったという記録もあります。娘とは再会したでしょうか?
そして1190年2月16日、河内国弘川寺で、長年の願いである「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月の頃」の通りに73歳で亡くなりました。太陽暦でいえば3月31日。桜の花が満開だった事でしょう。
この西行の生き方に藤原定家、慈円は感銘を受けたという事です。(続く)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?