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第28回 娘の誕生

1月13日、長保と改元された999年。正月早々、新婚の香子は嫌な噂を聞いた。それは夫の宣孝が別の妻と香子の手紙を品評していたというのだ。
閨(ねや)で二人で見ていたのかも知れないと思うと、香子はめらめらと怒りが湧いてきた。宣孝に手紙をしたためた。
「貴方からの手紙は全部返しますから、私が送った者を全て返して下さい!」
宣孝からは「貴女の文章がとても良いと褒めていただけですよ」
と恐る恐る返事が来た。
しばらく宣孝はやって来なかった。香子は古びた『蜻蛉日記』を読み返した。夜離れ(よがれ)になった夫兼家への愚痴が書いてある。
「ああ、やはり結婚というのはどれだけ嫉妬を我慢するかという事だったのかしら」
溜息が香子から漏れた。また物語の構想を練ったりして時を過ごした。

けれどまもなく二人は和解した。香子が30歳にして懐妊した事が分かったからである。宣孝は何事もなかったかの様に明るくまた冗談をふりまいた。

政界では、左大臣道長の娘彰子が12歳となり、2月に裳着の式をした。
「裳着とは大人の女になった事を披露するもの。普通は13から15だけど」
「とにかく道長様は焦っておられるのじゃろう。定子様に皇子が生まれぬ先にと」二人は会話した。

待望の長女賢子が生まれた月日は記録がないが、道長の第二夫人明子が8月9日に寛子(後に小一条院の妃)が生まれているのでその頃でしょうか。
当時の高齢出産だったので周囲は心配したでしょうが、母子共に健全で香子自身もほっとした事でしょう。

ちょうど定子も懐妊しましたが、実家は火事で燃えてしまっています(放火?)。宿下がりをする家として、少し前まで中宮大夫をやっていた(これも中関白家を見限って辞任した?)平惟中の弟・生昌(なりまさ)が以前定子に仕えていたのでその邸が選ばれます。
ただ生昌は、播磨にいた伊周が母の見舞いにこっそりと訪れたのを密告して、伊周が本当に大宰府に流されてしまった原因を作った男という噂がありましたが、この際仕方ありません。

生昌の邸に行った話はまた『枕草子』に詳しくて面白いです。まず中宮の御輿は東の門を改造して四足にしたので入る事ができましたが、女房達が入る北の門は小さかったので(中宮と女房達が入る所が違うというのに改めてビックリ!)、車が入らず、横付けできないので、清少納言ら女房は庭にしかれた筵道(えんどう:むしろ)の上を歩かされる事になります。そんな事になると思ってなかったので髪の薄い人がかもじをつけるなど身支度をしなかったのに、地下人にまでじろじろ見られてしまってしゃくだったとあります。
早速、生昌に「何であんな小さな門なの?」ととっちめるのと聞くと、「身分相応で」と答えます。生昌の生年は不詳ですが、兄がこの時、56歳ですから50歳前後の下級貴族だった?
清少納言は更に「門だけを立派に造る人もいますよ」と言うと生昌は「それは于定国(うていこく:前漢の人。やがて出世した)でございましょう。私は昔、文章(もんじょう)の生だったので、この道に足を踏み込んだ者なので貴女の言う事が理解できます」と自賛したので、「たいした道ではなさそうですね。でこぼこだったし!」とやり込めています。

更に夜、女房達が寝静まった所に、生昌が襖(ふすま)をそっと開けて「そちらに伺っても宜しいでしょうか、宜しいでしょうか」と言ってくる。しばらく無視していたが、若い女房が「駄目にきまってるでしょ!」と言うとすごすごと帰って行った。清少納言らは「あんな時、男は黙って入ってくるものよ。そちらに入っていいですか?と聞かれて、さあどうぞ、なんて言える訳ないじゃない!と大笑いした。
翌朝、清少納言らは面白おかしく門から入ってくる所から定子に報告した。定子は「生真面目な人だから、あまり笑い者にしてはいけませんよ」と笑って言った、とあります。

11月1日。ついに彰子は40人もの女房を引き連れて盛大に入内します。そして7日、女御宣旨を待つ朝、中宮定子は第一皇子敦康親王を産んだのでした。(続く)


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