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第101回 『在五が物語』の作成

故・時平の長男で次代の政権を担うと見られていた保忠が47歳で亡くなった翌月、忠平(57歳)は目標を達成した祝いかの様に最終官位・太政大臣に就任しました。
そして翌承平7(937)年12月に元良親王の主催で、父・陽成上皇の七十の賀が行われました。上皇は乗馬・歌合を楽しみ、平民を邸に呼んだり、盲者を庇護する慈善事業をして、矍鑠(かくしゃく)としていたのです。
忠平はそれを苦々しく思っていました。
「いつまでも元気な事よ。あの計画ができぬではないか」
父基経が意に染まぬ17歳の陽成天皇を、侍従が事故死したのを理由に退位に追い込んだ事を覚えている人はまだいました。
「早く陽成院様を悪者にしなければ」

当時、坂東で平将門が、西国で藤原純友が乱を起こしていました。純友は忠平に取って従兄弟の子ですが、すっかり出世街道からは外れていました。しかし京の人々は遠い所の事として、あまり危機感はなかったのです。

その頃、紀貫之(64歳)が2年前に土佐から帰京して無職なので、忠平やその子、実頼や師輔にしきりに任官の無心に来ていました。文学者である貫之は私腹をあまり肥やさず、子供もまだ小さかったので収入が必要だったのです。
忠平と、一番腹黒の血を引いている次男の師輔はにんまりと相談しました。
「貫之を使おう」
そして参上した貫之に二人は言いました。
「業平殿の物語を作ってくれぬか。それも恋の話を中心として。廃后になられた高子様との出奔や、噂になっている伊勢の斎宮だった恬子内親王との事を、歌を交えて・・・」
貫之は最初驚きましたが、尊敬する業平の妖艶なそして思わせぶりな歌を気に入っていて『古今和歌集』には多く採りいれました。それを元に短い物語ならできそうでした。

『在五が物語』-在原氏の五男である者(業平)の物語の原型ができました。
それを読んだ忠平と師輔は、「これを更に驚く様な内容にしなくてはならぬ。陽成院様の母と伯母は淫乱であったと」
と話し合い、貫之の他に文学者を物色するのでした。
貫之は褒美として、治部省の玄蕃(げんば)寮という仏事法会などの監督をする職にありつけました。しかし、業平の好色を暴くような(当時好色は悪い事ではなかったけれど)貫之の思いはどうだったでしょうか?

天慶(てんぎょう)3(940)年2月に、新王と称して反乱を起こしていた平将門(38歳)は平貞盛(諸説あり。30歳?)、藤原秀郷(50歳)に打ち取られました。翌年6月には、同じく瀬戸内で反乱していた藤原純友(49歳)も殺され、承平・天慶の乱は終息しました。

この間にも、『伊勢物語』の前段階である『在五が物語』作成は着々と進んでいきました。陽成上皇崩御の後に公表できるように。
そして師輔はまた別の野望を持っていました。(続く)

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