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第42回 後白河法皇(8)平家への愛憎(後篇)

1181年1月、まだ若い高倉上皇は危篤となります。ここで驚くべき提案がなされます。高倉上皇の后、建礼門院徳子を後白河法皇の后にしようというのです。誰から出たかは分からないとなっていますが、これはやはり後白河法皇でしょう。寵愛した亡き滋子の血続きの姪ですから。美貌でしたし。かつて息子の二条天皇も先の近衛天皇の皇后多子を気に入って強引に后とした例があります。清盛夫妻も内諾したといいますがどうでしょう?

ところがそれまで人形の様に従順であった徳子が断固として拒否します。夫高倉上皇の浮気の相手を手助けしたほどの人でしたが。まあ先例と言っても二条天皇尾は十代。後白河法皇は55歳の好色なオジン(私も66歳のオジンです笑)。絶対嫌ですよね。
清盛は交換条件として、厳島神社の巫女に生ましたという第七女の17歳の御子姫君を法皇に差し出します。この人も美しい人だったと言われますが、滋子とは血が繋がっていません。法皇は見向きもせず、嫌がらせの様に御子姫君に仕えていた女房に手を出します。(これは父鳥羽法皇も、待賢門院璋子への嫌がらせでやりましたね)御子姫君は悲しみの余りその年の内に亡くなったといいます。

結局高倉上皇はそのまま1月に21歳で崩御。そして清盛もマラリアに罹ったのか高熱を出し、閏2月に64歳で亡くなってしまいます。
そして後白河法皇の院政が復活します。しかし源氏の攻勢は強く、平家は1183年5月、倶利伽羅峠の戦いで源義仲軍に大敗したので、都落ちをしようという事になりました。
ここで一計を案じたのが後白河法皇です。福原京では海に近い御所に軟禁されました。西国に連れて行かれてはかなわん。しかし下手に逃げ出す事はできません。法皇はまた男色という手を使って摂政基道から7月25日朝に出立するという事を聞き出します。
ここで25日未明に法皇は二人だけの供で御所を抜け出し鞍馬寺を目指します。もちろん徒歩ではなく輿でしょうが、すごい行動力ですね。更に鞍馬寺に着くとここではまだ危ないと比叡山に向かったそうです。
よく私の講演でこの後白河法皇の行動力と対比するのが、国も時代も違うのですが、フランス革命のマリー・アントアネットです。王妃の彼女は夫らと共に母国のオーストリアに逃げようとします。しかし伝記(侍女たちの回想)を読むと、あれも持っていこうこれも持っていこうと、1分を争う時にまるで旅行にでも行く様に仕度に時間をかけ遅れたのでした。更に王が馬車の窓から不用意に顔を出して景色を見ている時、硬貨に王の顔が印刻されているものですから農夫にばれてしまって連れ戻されて王も王妃もギロチンの運命となってしまいます。危機意識が違いますね。

平家の西国落ちの際に五千という邸を燃やした炎を、法皇は比叡山から悠然と眺めた事でしょう。そして平家の官職を没収。追討命令を出すのです。平家は後白河法を帯同させられなかったので、朝敵となってしまうのでした。新しい天皇は安徳天皇の異母弟、後鳥羽天皇とします。

そして2年後、壇ノ浦の戦いで死にきれなかった平宗盛が、京を晒し者として行かされます。それを法皇は車を出して見物したと言われます。どの様な気持ちだってしょうか。
更に鎌倉に連行された宗盛父子は京に帰ってくる直前処刑されます。槍に突き刺さった生首はまた京を渡され、またも後白河法皇は車を出して見物します。俗物根性か同情か。特に宗盛の息子清宗は幼い時、法皇の膝で可愛がられたと言います。持ちつ持たれつだった平家にまたも法皇は鉄槌を下したのでした。次は木曾義仲との付き合いです。(続く)

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