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第41回 後白河法皇(7)平家への愛憎(前篇)

我が子二条天皇と対立する後白河上皇にとって9歳年上の平清盛はとても頼りになる「兄貴」でした。保元、平治の乱で後白河上皇を勝利者に立たせ、そして無礼な行動をする二条天皇の近臣を追い払ってくれたのです。

溺れる様に後白河上皇は清盛の言う事を聞きました。日宋貿易にしても、公卿たちは、外国と付き合うなどと反対でしたが、後白河上皇が後押しします。たっぷり儲けた利益で、清盛は今でも遺る三十三間堂を建てたりします。

更に清盛は、後白河上皇の妃に、妻時子の異母妹滋子を入れ、皇子が生まれると、8歳で高倉天皇としました。更に自分の娘徳子をその中宮としました。清盛の一族は皆昇進し、時子の弟時忠は「平家にあらずんば人にあらず」と放言しています。

ところが1177年、頼みの綱の滋子が35歳の若さで亡くなってしまうと様相が変わってきました。冷静になってみると、完全に清盛に主導権を握られている事に後白河法皇は気づいたのです。この辺、移り気な法皇らしいです。
鹿ケ谷の変で、打倒平家を計画しますが、すぐに密告者によって露見し、近臣は死罪・流罪となります。法皇はお咎めなしの感じでした。
後白河法皇は嫌がらせをする様になります。
清盛の嫡男重盛が40歳で亡くなるとその領地越前を取り上げたり、摂関家の財産を相続していた四女盛子が亡くなるとまた全部没収したり、平家一門の官位を上げたりしなくなりました。

数々の嫌がらせに業を煮やした清盛はついに1179年11月、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉し、以後一切政治に口を挟まない事を約束させます。

翌1180年4月、以仁王・源頼政が反乱を起こし、畿内の寺社の反発も大きくなったので6月、清盛は福原遷都を強行します。
ここで、後白河法皇が福原京で住まわされていたと伝わる「萱(かや)の御所」を私は拙著『清盛の時代』を執筆する時に訪ねました。

まず驚いたのは和田岬の海のすぐ近くで、横には亡き父の母校「兵庫県立工業高校」がありました。一度訪れてみたいと思っていましたが、こんな形で見る事ができるとはと感慨深く思いました。
そして何よりすぐ海です。高潮や浸水があったらどうするのでしょう?あるいはそれを狙ったか。
清盛の邸は雪の御所といって高台にあります。今でも営業している「港山温泉」があり、清盛も浸かったというキャッチフレーズです。私も入ってみました!

本当はもう少し中腹の教盛の邸に後白河法皇はいたのではないかとの説もありますが、『平家物語』では鎌倉の頼朝が挙兵に躊躇していて、文覚が福原の後白河法皇の元まで追い剥ぎにあいながら来て院宣を貰ってまた鎌倉へ向かい、頼朝も決意したという話があります。(しゃれこうべの話も)
結局、11月に清盛は周囲の説得により、平安京に還都します。
『平家物語誕生』の主人公源光行より、他の人の方がキャラが濃くってなかなか登場できませんが、前にも述べましたが、光行は頭脳明晰で平地の少ない都には不向きの福原京建設に尽力していました。(続く)

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