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第53回 中宮彰子の懐妊

寛弘4(1007)年閏5月、道長は吉野の金峯(きんぷ)山に登るため長い精進の生活に入りました。金峯山とは、かつて香子の亡き夫宣孝が結婚前に、質素なみなりで普通は行くのに派手な格好で行って話題になった所でした。神罰どころか昇進したので「どうだ!」と得意顔でいたのをまた清少納言がだいぶ後になって『源氏の物語』で人気を博しかけてきた香子に冷水を浴びせるように『枕草子』で変人扱いして書いたのでした。生きている時ならまだしもとっくに亡くなっている夫を笑い者にした清少納言を香子は許す事ができませんでした。
ところで道長が金峯山に登る目的は、すでに入内8年、20歳になった彰子に一向に懐妊の兆しが見えないことからでした。
「彰子の母の倫子は44になっても6人目の子を今年産んだというのに・・・」
そして8月まで道長は38か所の神社仏閣を回って必死に祈願したのでした。
10月には和泉式部と浮き名を流していた敦道親王が27歳で亡くなり、11月には東宮居貞(いやさだ・おきさだ)親王の第一皇子敦明(あつあきら)親王(母は道長の従兄の娘)が14歳で元服した事が都の話題となっていました。

寛弘5(1008)年になって正月、道長はかつての政敵で甥の伊周を准三后(大臣に准じる。名誉はある)にし、宥和的となりました。
2月、香子の父為時がかつて教育係や蔵人をした事もある花山法皇が41歳で崩御しました。
そして3月、ついに彰子に念願の懐妊の兆候が見られたのでした。(続く)

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