第15回 香子21歳 中宮定子登場
990年。香子は21歳になっていました。当時は女子は14,5歳で結婚するのが普通でしたが、病弱な1つ上の姉の事もあったのか、婚期を逃しつつありました。父為時は、失職から血縁にあたる具平親王(ともひら)親王(村上天皇の皇子)の元へ仕えていました。具平親王は香子より少し年上の再従兄。学識も豊かで光源氏のモデルの一人とも言われています。
その頃の香子は親友と文学の話をするのが楽しみだったでしょう。親友は二人いました。一人はまた再従兄の実方(だいぶ年長でした)の娘。拙著『源氏物語誕生』では峰姫としました。もう一人は為時の妹の娘。これも小夜姫としました。『伊勢物語』や『万葉集』を論じていたかな?
さて、正月5日、一条天皇は11歳で元服しました。これも本来15歳ですが、だいぶ早めました。その理由は同じ1月25日に、兼家の後継者道隆が14歳の長女定子を入内させたのです。定子の母は高階貴子と言って、宮中の女官もしていた才女でした。定子も才色兼備の姫になっていました。
一条天皇はたちまちこの魅力的な女性の虜になります。姉とも言うべきでしょうか。
5月道隆は摂政となり、そして7月2日、功成り名を遂げた兼家は62歳で亡くなります。その間、6月に清原元輔が任地の肥後で83歳で亡くなります。後の清少納言の父です。
更に道隆の野望は火を噴きます。
娘の定子を女御から中宮にしたかったのです。
当時、太皇太后昌子内親王、皇太后詮子、中宮遵子 と三后は埋まっていました。それを遵子の中宮を皇后とし、定子を中宮にねじ込んだのです。
中宮は皇后の別称で同一なのですが、すごい解釈で、娘を后にするためにごり押しして前代未聞の四后にしたのですね。後年、道長からこれをやり返されます。
ところで道隆はとても大酒飲みだったそうです。結果論ですが、それが元で43歳で早死にし、政権は弟の道長に移っていきます。道長は62歳まで生きます。
同じ様な事が兼家の長兄伊尹も贅沢で飲水病(糖尿病)となり、49歳で亡くなってその子孫は政権から離れました。
下って江戸時代ですが、徳川家康は非常に健康に気を使っていました。納豆をよく食べ、粗食、運動に務め、74歳まで生きて天下を取りました。
対照的に豊臣秀吉は、毎日ご馳走で、それだけが原因ではないですが、62歳で亡くなりました。死期を悟った時、後継ぎの秀頼が6歳だったのを「せめて秀頼が15になって元服をするまで生きていたかった」と言ったといわれます。15であれば、統率できない事もないので徳川か豊臣か天下はどうなったかは分からないですかね。
とにかく健康問題が、道隆も秀吉も運命を分けた感じです。