第5回 朱雀院(5-この項、終わり)
上皇となられてからの朱雀院は却って安泰に暮らし、何と女御熙子女王は懐妊しました。もう誰もが朱雀院には子女はできないだろうと思っていたので、特に母后の穏子は熙子女王自身が若くして亡くなった東宮保明親王の皇女なので喜びもひとしおでした。
天暦4(950)年5月5日、熙子女王は皇女を産みましたが、何とその日の内に亡くなりました。熙子女王の生母仁善子はあの藤原時平の娘で5年前に亡くなっており、人々はまた道真を追い落とした張本人時平の一族が怨霊に殺されたと噂するのでした。
同じ5月の24日には村上天皇の女御安子が皇子(後の冷泉天皇)を産み、早くも将来二人を天皇と后として結婚させようという話もおこってきました。
朱雀院は生まれた昌子内親王をそれこそ鍾愛しました。ちょうど『源氏物語』の朱雀院が女三宮を溺愛した様に。
朱雀院の周囲の不幸は続きました。翌年、もう一人の女御であった藤原慶子(実頼女)が亡くなり、そして朱雀院自体も健康を害してきました。
天暦6年、30歳となった朱雀院は3月に出家して法皇となり、4月には仁和寺へ遷りました。これも『源氏物語』はなぞっています。
数え3歳の一粒種・昌子内親王の将来を案じながら朱雀院は8月15日に崩御されるのでした。母后穏子の嘆きは言うまでもありません。
さて、紫式部はリアリティを持たせるため、実在の天皇の名を使おうとしました。結局、昌子内親王に子は生まれず、朱雀院の系統は式部が執筆する頃は断絶していました。使い易かったのかも知れません。紫式部に好意を見出すとすれば、物語終盤で、朱雀院の皇子が天皇となっていて、そこからたくさんの皇子・皇女が生まれていて繁栄しているという事でしょうか?(この項終わり)