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第41回 「応天の門」燃える!(1)

現在、宝塚月組で『応天の門』を上演しています。かつて2001年正月に同じく星組で『花の業平~忍の乱れ』がBSで生中継され、しっかり録画できたのですが・・・今回も何かで観れる事を期待します。まあ原作でおおよそは知っていますが。
業平と道真は20歳差ですが、ほんとに仲が良かったみたいで、実は道真は秀才ですが、業平との接点は「色好み」で、二人で遊女宿に行ったという記録も残っています(!)

さて、貞観8(866)年閏3月10日。突如として朝堂院に対する正門の応天門が燃えました。応天門というのは平安京造営の時に特に大伴氏が守ったもので最初「大伴門」と言われていたのが「応天門」になったと言われています。現在でも平安神宮の中に8分の5サイズの応天門があります。今でも大きいのですから当時は威容を誇っていたでしょうね。
今回も色々調べ直していて、空海が門の額名を書いたのですが、最初「應天」の應の广(まだれ)を厂(がんだれ)にしてしまって、額が掲げられてから気づいた空海が、何と筆を投げて点を加えて、これが「弘法も筆の誤り」の語源になったとか・・・

京中は大騒ぎです。何せ正門が燃えたのですから。何故燃えたのか?放火なら犯人は誰か?何のために?

ここで噂が出てきました。というか立てられました。当時左大臣には嵯峨源氏である源信(まこと:57歳)がなっていましたが、大納言の伴義男(56歳)と不仲でした。まあ出自の良さを鼻にかける賜姓源氏と祖父が斬罪、父も連座で佐渡に流され、恩赦で帰京してから努力したたたき上げの善男とは気が合わなかったでしょう。そして応天門は別名・大伴氏の門ですから、信が嫌がらせで燃やしたというものです。

その頃、善男は右大臣良相(54歳)にべったりでした。良相の兄・太政大臣良房(63歳)としては面白くありません。かつては良房に尻尾を振っていたのに、「きゃつめ、乗り換えたな」と不快でした。
5月に、善男の勧めで、ついに良相は信の逮捕に踏み切ります。しかし良相はこれを何故か基経に命じています。これは完全なミスでした。
良房は長く病として邸に引きこもっていましたが、基経の連絡を受けて、すぐに内裏に向かい、孫の清和天皇(17歳)の元に向かい、信の弁明をして逮捕をさせませんでした。それまでお高く止まっていた信は、良房に平身低頭、感謝します。

事件はまた振り出しに戻り、迷宮入りかとも思われてきました。
6月には伊勢の斎宮恬子内親王が無事に業平との男児を産み、秘かに手筈通り、京の高階茂範の養子となりました。何か私見ですが、この応天門放火は大事件を起こして出産を目立たなくさせようとした恬子内親王の周辺も関わっている様な気もするのですが・・・

しかしまた噂が出ました。もうじき真犯人が捕まるというのです。
そして8月3日、大宅(おおやけ)鷹取という下級役人が、「伴善男と息子の中庸(なかつね)が応天門に火をつけるのを見た」と訴え出てきました。(続く)



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