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第166回 重衡の南都焼き打ち

話は少し遡って、治承4(1180)年12月28日、清盛の五男重衡は、平家に攻撃をしかける計画があるという南都を攻めに行っていました。先頃は北の園城寺を焼き払っています。清盛は最初手荒な真似をしたくなく、「絶対に手出しをするな」と使者たちを送ったのですがことごとく殺害されたんで意を決したのでした。
しかし夜戦だったので、明かりを点けるために民家に火をつけたのでしたが、冬の強風で煽られ、みるみる燃え移り、とうとう東大寺の大仏殿はじめ全ての伽藍を燃やし、興福寺も灰燼に帰しました。
「父上、申し訳ありませぬ」
清盛が一番可愛がっている、時子との末の男子、重衡は号泣して謝罪しました。清盛は静かに言いました。
「己を責めるでない。そちのせいではない。仏法を信じる身であるのに、いたずらに政に口を出し、暴力を振るい、欲に走っている者を成敗したまでのことよ・・・」
「しかし、聖武の御代の大仏まで燃やしてしまって・・・父上に仏罰が下るとまで言う者もおります・・・」
「大仏はまた造ればよい。銅と、表に金を吹きかければ良いのじゃ。気にすることはないぞ・・・」
清盛は必死に重衡を慰めました。

この五年後、平家が滅びると共に重衡は南都の僧兵たちに引き渡され、首を刎ねられ、その額に大きな釘を挿されて、門に晒されたのでした。(続く)

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