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第13回 兼家の傲慢さはいつから?(1)

香子一家や、道綱の母の人生を翻弄させ、世人からその傲慢さで顰蹙を買った兼家のそんな性格はいつからなのでしょう?

兼家は右大臣師輔の三男として生まれました。明るくで自分のやりたい事はやる。26歳の時、すでに時姫と言う妻がいて長男も生まれているのに、才色兼備と噂される19歳の倫寧(ともやす)の娘に強引に求婚します。翌年道綱が生まれてからすぐまた別の女に浮気したのは言いました。

しかしその頃はやんちゃな御曹司という感じでしたが、32歳の時、父が53歳で亡くなってから本性が出るというか変わってきました。
父の後は長兄の伊尹が継ぎました。この人も明るく、文学にも秀で、百人一首に「あはれとも いふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな」があります。一つ下の次兄兼通は美貌なのですが、性格が暗かったらしく、伊尹は5歳下の兼家を取り立てます。

兼家は汚れ役を必死にやります。例えば、本来、左大臣源高明の女婿であった為平親王が皇太子になる筈だったのに、それを避け、さらにその下の守平親王を皇太子につけます。『大鏡』では「さあもう決まりました!」と言って髪を整えたりします。更に光源氏のモデルでもある高明を謀反の罪と言って叔父の師尹と共謀して大宰府に追放してしまうのでした。

当然、長兄伊尹の覚えはよく、すぐに次兄兼通を追い越して大納言にまで昇進します。ここで伊尹という人は贅沢で、飲水病(糖尿病)にかかってしまい49歳で病死します。兼家は44歳。当然兄の後を受け継いで関白になれると思ったら、次兄兼通がとんでもない秘密兵器を持ち出してきました。

それは円融天皇の亡き母で兼通・兼家の姉妹である亡き安子の手紙でした。そこには「摂政・関白は兄弟の順に」とあります。円融天皇は母の遺言で中納言の兼通を関白に任じました。兼通は兼家を絶対に昇進させません。

兼家は時を待ちました。そして5年後、今度は兼通が重病となります。すると先駆けの声がして、「東三条殿(どの)(兼家)が来られます」との家人が言います。兼家は涙します。「普段不仲でもこうやって見舞いに来てくれたのか。用意をせよ」と兼通は言いますが、兼家は何と兼通の邸の前を素通りして宮中へ行ってしまいます。『蜻蛉日記』でも兼家がわざと邸の前を通ってべつの女の所に行くという下りがありますが、兼家は無神経だったのでしょう。

烈火の如く怒った兼通は、危篤なのに装束をつけ、内裏へ行きます。兼家はもう兼通は死んだと思って、関白要請に来ていたのです。幽鬼の様な兼通は関白を従兄弟の頼忠に譲り、兼家の右大将の位を奪って帰宅し、ひと月後に亡くなります。

二度までも運に見放された兼家。まあ2回目は自業自得なのですが、これから非情になってきます。(続く)

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