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第54回 崇徳院の悲劇(2)

愛する女房・兵衛佐(ひょうえのすけ)と僅かな家人と共に崇徳上皇は舟で讃岐へと流されていきました。旧暦7月のまだ暑い時なのに、罪人扱いなので舟の出入り口は打ちつけられ、薄暗い中を無念の思いで上皇はただ波の音だけを聴いてじっと我慢していました。兵衛佐はずっと背中をさすって励ましていた事でしょう。

そして讃岐に着きました。御所とは名ばかりで粗末な邸で、上皇は写経を始めました。また得意の歌も詠みました。
「ここもまたあらぬ雲井となりにけり 空行く月の影にまかせて」
この歌から「雲井の御所」と呼ばれるようになりました。
「なけば聞く聞かば都の恋しさに この里過ぎよ山ほととぎす」
「浜千鳥 跡は都へ通えども 身は松山に音をのみぞなく」
都に倣って、綾川を鴨川と呼び、山を東山、西山と呼びました。

兵衛佐の願いで、地元の綾氏の若い娘を召し、綾の局とし、上皇の慰めとしました。一男一女が生まれ、その子孫は現在でもおられるそうです。

しばしの安息が訪れた上皇の心境を一変させ、地獄に突き落す事件が起こりました。
まず役人の注進で好意的だった綾氏もそして綾の局や生まれた子も遠ざけ、木の丸殿という監視が厳しい所に移転させられました。
そして、丸3年が経って、五部の大乗経の写本が完成し、京に住む弟・覚性法親王の所に送りました。
しかしそれを聞いた後白河上皇は戸惑っていました。
「兄上の書かれた写本が近くまで来ているそうな、信西どういたそう」
「讃岐の院様が書いたものなぞ都に入れたらそれこそ呪いが入るではありませぬか。突き返されませ」
「そうじゃな」
信西はこの後、平治の乱で亡くなります。

やがて弟、後白河上皇から返書が来たと喜び勇んでその箱を開けようとしました。
兵衛佐は何かを感じて、「私が先にお改めを」と言いましたが。
「あやつには昔よくしてやった。恩を覚えておったのじゃな」
と言って崇徳上皇は箱を開けて、凍りつきました。
箱の中には送った写経がぼろぼろになって入っていたのです。そして手紙を添えてありませんでした。(続く)

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