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第9回 源義家の死と堀河天皇の崩御

長治3(4月に嘉承と改元:1106)年、源義家の嫡男である義親(年齢不明)が隠岐や出雲で乱行をしているので、父親である義家に捕縛せよという命令が出ます。
ただ、義親を告発したのは後三条天皇の側近から続く白河法皇の近臣であった聡明な大江匡房(66歳:権中納言でもあった)ので、小細工をする法皇なので陰謀かも知れません。法皇は義家の人気を削ぐために、後三年の役を私闘とみなして義家に恩賞を与えませんでした。義家は私財を投げ打って家来に恩賞を与えたため、余計に人気が上がったといいます。(しかし近年、私財ではなく、官物であったと言われますが)
また義家はかつて匡房に学問を習っていて、鳥の列が乱れたら敵が隠れているという『孫子』から難を逃れたともいい、謎が多いので調べる価値はありそうです。
息子の逮捕を命じられた義家は衝撃の余り寝込み、その年の7月1日、68歳で亡くなりました。「八幡太郎」と持てはやされた武将の死でした。
後継ぎは三男の義忠になりますが、源氏は内紛が多く、叔父義光に殺されてしまいます。
結局、後を継いだのは義親の四男である為義(後継者となったのは14歳の時)ですが、実は義家の息子だったという説もあり、また謎を深めています。

翌年になって、元々虚弱だった堀河天皇ですが、病に臥し、7月、29歳の若さで崩御します。悲しみに暮れる父・白河法皇ですが、気を取り直して孫の宗仁親王(5歳)を鳥羽天皇として即位させ、後見として院政を続けます。白河法皇の独裁が決定的に強まるのはこの時からだと言われています。(続く)

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