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第99回 崇徳上皇の崩御

長寛2(1164)年8月、京から三木近安という刺客が、命を受けて讃岐に崇徳上皇(その頃は讃岐の院と呼ばれていました)殺害に向かっていました。
近安に命令を出したのは確定はしていません。その頃、体調が悪く精神不安だった二条天皇か、まさか同母弟の後白河上皇か・・・

刀を抜いた武士が近づいてくるというので、鼓岡の御所にいた側室・兵衛佐は言いました。
「上皇様、お逃げ下さい!」上皇を逃がしたのです。
しかしずっと座っている毎日だった上皇は足腰が弱っていて、きちんと走れません。それでも崇徳上皇は必死で逃げました。
近安はどんどん迫ってきます。
崇徳上皇は大きな柳の木に登り、その穴に隠れたと言います。

しかし不幸にも上皇の姿は前の池に映っていました。
「院様、お覚悟を」近安は刃を立てました。
上皇の絶命を確かめ、遺体は冷水に浸けられ、検視官が来るまで置いておかれました。
8月26日、崇徳上皇は46歳の不運な生涯を終えられたのでした。

それから800年。1964年、日本ではアジア初のオリンピックだと沸き立っていました。ちょうど崇徳上皇の800年忌に当っていました。今までいろんな天変地異は崇徳上皇の怨霊と信じられていました。政府は丁重に崇徳上皇の霊を祀り、「オリンピックを邪魔なされないで下さい」と祈りました。
第18回東京オリンピックは日本の活躍もあり、大成功で終えたのでした。(続く)

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