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第38回 後白河法皇(4)消えていく権力者ー信西

後白河天皇は即位の段階から軽視されていました。第一皇子の守仁親王が本命だったので、先に守仁親王の立太子式を行ってから後白河の即位式を行いました。普通はというか絶対に、天皇の即位式を先にやってから後で立太子式ですよね。

信西というのは後白河天皇の乳母夫です。高階氏だと思ってたら、元は藤原南家。不比等の子たちの四家の中で長男の家でありながら次男の北家に権力を奪われました。まあ仲麻呂などの謀反人がいたせいでしょうか?

しかし頭は抜群に切れ、後白河天皇が即位した時51歳。めきめきと頭角を現します。翌年の保元の乱では、天皇方を仕切り、先に夜討ちをしかけよと命令したと言われます。乱後の厳しい措置も信西です。平安京では約300年以来という死刑を復活させました。論功行賞も信西の意のままで、例えば一番戦乱で功のあった源義朝よりも平清盛を優遇しました。そして義朝の命乞いにも拘わらず、上皇方に付いた父為義や弟たちを全て殺させました。(為朝だけは武勇を惜しんで流罪)義朝は信西に取り入ろうとして婚姻を持ちかけますが信西は断り、事もあろうに清盛の次女を自分の息子の妻とします。義朝の信西への恨みは増していきました。

この清盛の次女について興味深い点があるので説明します。
信西はやがて追われ殺されます。この結婚も自然消滅したのでしょうか。
やがて清盛はこの次女(三女が徳子)を花山院兼雅の妻とします。
その子孫には五辻家が出、何と後醍醐天皇の生母や後伏見天皇(現在の天皇の祖)の生母を輩出します。

ところで、信西が後白河天皇を酷評していたのが、後年、後白河に批判的だった九条兼実が、人から聞いた話として日記に記録されています。
「和漢の才なし。暗主なり」ひどい話ですが、まあ朝方まで四十日間もずっと今様ばかりを歌っていた雅仁親王(後白河)を見ていてそう思ったのでしょうか。

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