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第92回 伊勢の前斎宮恬子(やすこ)内親王の死

右大臣源光が失踪して、亡くなったという事で葬儀をした延喜13(913)年6月、洛北でひっそりと伊勢の前斎宮恬子内親王が66歳で亡くなりました。
歴史から忘れられた様な内親王でしたが、「死人に口なし」なのか、やがてひそひそと噂が立てられました。
「内親王には子がいたらしい」
「それも在原業平との男子が」

噂の男子とは、高階師尚(もろなお)50歳。師尚が本当に内親王の子だったら、母子の名乗りはできたのだろうか、今生の別れはできたのだろうかと思ってしまいます。Wikipediaでは、両親は「在原業平・恬子内親王」と明記しています。
その噂が内親王の死後すぐにかしばらくたってかは分かりません。師尚もこの3年後の7月に亡くなっているので真相は闇の中です。

しかしこれはいろいろな角度から「物語」とされました。古今和歌集に
「君や来(こ)し我や行きけむ思ほえず 夢かうつつか寝てかさめてか」という詠み人知らずの歌があったのを内親王の歌としたのです。
古今集でまた業平の歌に「かきくらす心の闇にまどひにき 夢うつつとは 世人(『伊勢物語』では今宵)さだめよ」というのがあり、『伊勢物語』では二人の相聞歌として呼応させています。

大事なのは、密通が本当にあったかどうかではなく、恬子内親王が陽成上皇の伯母であったという事です。この頃政権を取った忠平にとって、父基経は偉大でした。しかしその父に取って黒歴史とも言えるのが陽成天皇を退位させたという事でした。本当は言う事を聞かない高子・陽成天皇の放逐だったのですが、それでは後世、基経に汚点がついてしまいます。陽成天皇を狂疾の帝にしようとしたのはもうこの時、計画されていたのでしょう。そしてその近親、母高子は淫乱。そしてこの伯母恬子内親王が密通して子を産んでいたなど忠平側にとっては嬉しいニュースです。現代でも、もし未婚の内親王が秘かに子を産んでいたなど表沙汰になったら、一大スキャンダルでしょうから。

伊勢の斎宮という狭い社会に押し込まれていた内親王。その内親王にとって業平との夢の一夜は美しいものだったでしょうし、退下してから37年間。頼りにしていた兄惟喬親王も亡くなり、業平も逢う事もなく亡くなり、内親王の生きる希望は、会えない我が子・師尚の消息を聞く事だけだったでしょう。

なお、高階師尚の子孫からは、高階貴子、そこから中の関白家の伊周、中宮定子、隆家などが出、多くの子孫が出ています。皇室にも繋がりました。また信西、高師直などの歴史人物も出て賑わせています。(続く)

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