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第53回 源 範頼

源範頼は1150年、義朝の六男として遠江国池田宿の遊女との間にできたと各書で書いてあります。しかしこれだと五男の希義が1152年生まれとあるので矛盾が生じます。七男の全成が1153年とあるのでこの間でしょうか?
遊女と言っても、地方の有力者の娘だという説もあります。

1159年の平治の乱で父義朝が敗れ、子供たちも散り散りになる中で、範頼は時々出てくる藤原範季(後鳥羽天皇の乳母範子の叔父で登場)に庇護されます。
これも理由は分からないとされていますが、系図を調べると、頼朝の母由良御前と範季は再従兄妹の関係になります。(両方の祖父が兄弟)
由良御前は亡くなっていますが、その夫の窮地で異腹ですが、範頼を育てたのかなあ?って思ってしまいました。(要再考)
それで元服の時に範の字を貰ったというのは確かなようです。

1180年に頼朝が旗揚げして、最初は遠江の甲斐源氏に仕えた様ですがやがて頼朝の元に行きます。その頃の頼朝は一人でも味方が多い方がいいので4人の異母弟を快く迎えた?
1183年12月に木曾義仲追討軍として範頼は異母弟の義経と派遣されます。
何度かミスをして頼朝にひどく怒られたみたいでそれからはせっせと細かい所まで報告の手紙を送っています。
派手な活躍をする義経に対して地味でしたが、支え役と思って義経を助けていました。
義経は余り連絡をしなかったらしく、余計に義経の独断が目立ち、頼朝が任官を推薦しないのを後白河法皇に見破られて義経が頼朝の許可なく任官され、頼朝の怒りは頂点に達し1年ほど義経は軍から外されてしまいました。

この間、範頼が総大将となって、うまくいかなかったという記述が目立ちますが、食糧支援を鎌倉方が十分にせず派遣したというのが最大の問題の様です。
1185年になって義経が復帰。範頼はまた裏方になりますが、ちゃんと九州を抑え、平家が彦島に釘付けになる様にしています。
3月の壇ノ浦の戦いからしばらくして10月、範頼は鎌倉へ戻りますが、義経が頼朝から冷たくされ、追い詰められていくのをどう見ていたでしょうか?

それまでに範頼は、安達盛長の娘を妻とします。この女性の祖母が頼朝が大恩ある比企の尼でした。
範頼は1189年の奥州征伐にも従軍し、また翌年11月の頼朝上洛でも大納言拝賀式の前駆を務めるという名誉に与かります。

しかし頼朝の征夷大将軍任官の翌年1193年5月、例の富士巻狩りでの曾我兄弟の仇討ちで頼朝も命を狙われたという情報が鎌倉に入ります。
範頼は巻狩りに行ってなかったのですね。ここでまずちょっと溝を感じます。それで例の「鎌倉には範頼が控えております」と政子を勇気づけたのが仇となって(全てがでっち上げと言う説もあり)帰還した頼朝はまた激怒。そして結局、筋書き通り(範頼が邪魔だった?)に範頼の弁明空しく伊豆修禅寺に幽閉。誅殺されてしまいます。しかし頼朝の長男頼家も結局同じ修禅寺に幽閉されて殺されるのも歴史の因縁ですね。

さて、範頼の男子たち(2人?)の処遇ですが、ここで頼朝の恩人比企の尼が嘆願にきます。ひ孫たちの命だけは助けてくれと。大恩ある人の頼みですから頼朝にしては珍しく助命して武蔵の吉見に流されました。
子孫もいろいろあったみたいですが、私の知人で明石市に吉見という方がいて、埼玉に親戚がいて、系図を見せて貰った事があると言ってました!


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