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第69回 陽成院と源定省の結婚

17歳で退位して落ち込む陽成上皇の側に一人の女性が上がりました。乳母紀全子の娘で紀君(きのきみ)と言われた宮人(みやびと:妃より一段下)となりました。彼女はあの事故死した源益の妹だから本当は源氏ですが、母の名字を名乗りました。するとやはり益の死は、殺人ではなく事故死と了解していたのでしょう。殺人だとさすがにその妹を上げる気にはならないでしょうから。

その年の末、皇子が生まれました。すぐに臣籍に下され、源清蔭(きよかげ)と言って、大納言までいきました。(有名な元良親王は後年別の女性から生まれます)

一方、源氏の身となって自由な環境となった定省(18歳)は藤原高藤(紫式部の先祖)の娘胤子(あやこ?)の元へ通い婚礼をし、胤子は懐妊します。(後の醍醐天皇)
これに慌てたのが養母の淑子です。
「定省には考えていた姫がいたのですよ」
実子のいない淑子は定省を養子にし、橘広相(ひろみ)という学者の娘・義子を養女として、ゆくゆくは二人を結婚させようと思っていました。今でも養子と養女を結婚させ、私の田舎では「寄せ子」なんて言い方をします。

そして定省は橘義子とも婚儀をします。後に道真左遷の理由となった斎世(ときよ)親王も後年生まれます。

前述しましたが、この年9月、陽成天皇退位後の「当て馬」とされた恒貞親王(承和の変で廃太子)は絶食し、60歳で亡くなりました。(続く)

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