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第16回 道隆と道長

定子が一条天皇の所に入内した時、父道隆38歳、道長は25歳、香子は21歳と想定されます。

道隆は容姿も美しく冗談をよく言ってたとか。そして大酒飲み。
女性関係もいろいろあって、先に山城守藤原守仁との間に971年長男道頼を儲けますが、やがて高階貴子に愛情が移ったのか、974年伊周を儲けた後、伊周含め3男4女が生まれています。

その前にも、有名な赤染衛門の百人一首での「やすらはで寝なましものを さ夜ふけて かたぶくまでの月を見しかな」があります。
今夜行くよと言って、結局来ず、月が沈むまで待っていた妹のために赤染衛門が抗議の歌を詠ったものです。

定子を入内させて皇子を儲け、嫡男伊周をどんどん昇進させる中の関白家(後で言われたものですが)の隆盛を目論んでいたのでしょう。またWikipediaを読んでると、末裔が九州の菊池氏となって更にその支流に西郷家があり、「隆盛」の隆は道隆に由来しているとか?

13歳年下ですが、道長も虎視眈々と天下を狙っていました。一条天皇即位の翌年、22歳で左大臣源雅信の娘倫子(24歳)と結婚しています。雅信はまだ若造と難色を示しましたが、母親の穆子(香子の父と従兄妹)が「あれは人物だ」と後押ししたとか。翌年早速娘(彰子)が生まれますが、その頃、道長は姉詮子のもとで養われていた、かつての悲劇の左大臣源高明の末娘明子とも結婚します。明子の方が1つ上だった?

明子は薄幸の美女という感じで多くが狙っていましたが、道長贔屓の詮子が許可したという事です。しかし後年、倫子腹の男子(頼通ら)と明子腹の男子(特に能信)が対立しますがその時はそこまで思わないですよね。

定子が14歳で入内した時、彰子は数え年の3歳。これから巻き返すぞという決意を道長は抱いていたでしょう。

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