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第49回 後白河法皇(14)源頼朝

1185年11月24日、源頼朝の名代として舅の北条時政が入京。頼朝追討の院宣を出した事に対してとても激怒していると後白河法皇を脅し、29日には全国に守護・地頭を置くことを認めさせます。
これは全国の警察権・徴税権を鎌倉方が握ったという事で、頼朝と後白河法皇の喧々諤々(けんけんがくがく)の駆け引きでした。むしろ頼朝の方が勝ったと言えます。

それからしばらく後白河法皇と頼朝は距離を置いていました。1189年、義経を匿っている事が明白な奥州に対して征伐をしたいと言っても後白河法皇は最初許可を出しませんでしたが、頼朝は奥州藤原氏はかつて源義家の家来であったという事で強引に征伐します。法皇は後で追認します。
奥州征伐も成り、10月に鎌倉に帰還した頼朝に、法皇は上洛を促します。ここで両巨頭の会談といきたい所だったのでしょう。頼朝は「明年には」と答えます。

そして1190年10月3日、頼朝は上洛のため、鎌倉を出立します。そしてゆっくりとまるで顔見世興行の様に1か月かけて、11月7日、30年ぶりに頼朝は入京し、かつて平家の本拠地があった六波羅に建てさせた新邸に入ります。
頼朝は感慨深かった事でしょう。30年前、平清盛の前に恐らく庭に引き出されてあわや死罪という時に助命され、伊豆に流されたのだから。同じ場所に立っていろいろと思った事でしょう。

11月9日、頼朝は法皇に謁見するために参内します。初めて会ったと書いてあったりしますが、私は初めてではないと思います。なぜなら頼朝は12歳から後白河法皇の慕う2つ上の姉・上西門院統子内親王に仕えていたからです。後白河法皇は母を同じくするこの姉をひどく慕い、独身の内親王に后の位を贈っています。御殿にも足繁く通ったという事で、美少年の頼朝ときっと会話くらいした事でしょう。ひょっとしたら、凡人の想像以上の事があったのかも知れません。

30年たってこの時、後白河法皇64歳。頼朝44歳。二人は余人を交えず8回も会見したと言います。二人の共通の人物・上西門院は前年亡くなっていました。美貌の方で、実は上西門院こそ頼朝の助命に陰ながら奔走した人でした。清盛の継母池の禅尼を動かしたのも上西門院で当時帝位にあった後白河法皇も助力したでしょう。頼朝はその時の事を感謝したに違いありません。

法皇は頼朝に大納言に任じ、前任者を辞めさせて、右近衛大将を授けました。しかし頼朝が一番欲しいであろう征夷大将軍の話はしませんでした。かつて木曾義仲には強要されて与えましたが。二人の虚々実々の駆け引きがまた見える様です。

結局頼朝は単なる名誉職である二つを12月4日に辞し、14日には京を発ち、今度は早く29日に鎌倉に帰還しています。年内に着きたかったのでしょう。
後白河法皇は取りあえず今回は勝ったと思い、しかし今後油断のならぬ武将の大将と思ったでしょう。
頼朝は、九条兼実などから、法皇万歳の時はすぐに征夷大将軍など入ると助言された事でしょう。京では鎌倉方と法皇方に分かれていました。(続く)

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