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第80回 長田忠致(おさだただむね)の残虐な処刑

平治2(1160)年1月、追い詰められた事態と目先の損得で、主殺しという選択をしてしまった長田忠致(年齢不詳)でしたが、恐ろしい結末が待っていました。

20年後の1180年、源頼朝が挙兵し、力を持ってくると、忠致は平伏します。すると頼朝は意外にも「懸命に働けば、美濃尾張をやろう」と寛大な態度に出ます。忠致とその長男・景致は一生懸命、平氏討伐に務めます。
そして1185年平氏は滅亡、そして1189年、頼朝にとって最大の脅威であった弟義経を奥州藤原氏に殺させます。
全く敵のいなくなった頼朝は1190年上洛しますが、途中で尾張国野間(現在の愛知県知多郡美浜町?)あたりで長田父子を捕え、残酷な「土磔(つちはりつけ)」の刑にします。これは一瞬に殺すのではなく、地面の敷いた戸板に大の字に寝かせ、足を釘で打ち磔にし、槍で爪を剥がし顔の皮を剥ぎ、肉を切り数日かけて殺したと言います。(Wikipediaより)
主人である父を殺した長田忠致に対する頼朝らしい復讐でした。かつて「美濃尾張をやる」と言ったのは「美濃尾張ー身の尾張」という意味だったのです。
こうしてじっくりと殺すやり方は「凌遅刑」と呼ばれ、広く行われてきました。人間は何て残酷なんでしょう。そう言えば関所に土の中に生き埋めにして鋸を1回引かなければ通れないとか、海岸に埋めて満ち潮になったら溺死させるとか、第二次世界大戦中の独ソ間の捕虜収容所では、わざと食事を与えずに死んでいうのを観察したとも言われます。(それでお互いの生存率は5%!)
20世紀初めまで肉を少しずつ切る凌致刑は中国・朝鮮でも行われており、遺された写真を見てしまいました。

ところで私は幼い頃より、「ナゴヤ」と呼ばれる美味な魚が好きでしたが、最近になって命名を知りました。実はフグの一種で、時には死にいたるー「身の終わり」なので美濃尾張ーそれで名古屋とつけたのだそうです。
長田忠致の子孫は残っているとも言われ、また忠致の兄・親致は義朝殺しに反対したという事で、家名は残りました。(続く)

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