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第68回 伊賀の方ー冤罪?

昨日、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』最終回が終わりましたね。さすが三谷さん、いろいろと仕掛けを観せて貰いました!史実では義時は表面上は脚気、妻伊賀の方が毒殺し、三浦義村に息子政村を執権にしてほしいと頼むのですが、政子が直談判。義村は翻って伊賀の方は追放。あるいはすべて政子が仕組んだ事という説もあるようですが。
放送では最後どんな亡くなり方するのかなと思っていましたが、伊賀の方の毒殺説を採り入れつつ、最後は政子が引導を渡すというのは、一部政子が殺害するのではというネットの予想もありましたが圧巻でしたね。有りえない?感じですが面白かったです。

さて、伊賀の方は、平将門の乱で功をあげた藤原秀郷の子孫ともいい、1203年比企氏の乱で義時と離婚した姫の前に代わって、義時の正室となり、2年後には男児政村、その3年後には更に時泰を儲けています。

1221年承久の乱で勝利したものの鎌倉方ではまた新たな勢力争いが渦巻いていた様です。尼将軍政子は甥の聡明な泰時を買っており、次の執権は泰時としたいと思っていました。義時が亡くなった時、泰時は京都で六波羅探題にいましたが、鎌倉へ戻り、すぐに政子の館を訪れて相談しています。

政子にとっては、いろいろと北条の弱みを握っている三浦義村は厄介な存在だったでしょう。そして義時の後家・伊賀の方がいます。自身が将軍頼朝の後家として力を持ったようにこのままでは伊賀の方は執権の後家という事でいろいろ政子にとっては邪魔な存在だったでしょう。

そして政子と義村の手打ちで、伊賀の方に付きそう筈だった義村を呼び戻し、伊賀の方や伊賀一族を流罪にしようという事に落ち着いたと言う説があります。伊賀の方は伊豆に流された4か月後、謎の急死を遂げています。
冤罪であったかなかったかは永遠の謎となりました。

ただ、伊賀の方の息子政村(当時20歳)は自分が無実となった事に感謝したのか、泰時やその子孫にずっと仕えます。泰時の曾孫の時宗の相談役ともなり、元寇の対策も考えながら、1273年、69歳で亡くなります。
一方、弟の時泰(当時17歳)は精神不安定となり自殺未遂を繰り返し27歳で出家しています。家督を金沢文庫で有名な実時(11歳)に譲りました。

いろいろと謎の多い伊賀氏の変ですね。狂暴な帝であったとされる陽成院は実は良いひとであった?など歴史上冤罪はあまたあります。悪女のレッテルを貼られた伊賀の方の再考も必要なようですね。

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