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伊勢物語誕生の秘密

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伊勢物語がどうやってできたかを色々な角度で探ってみたいと思います。
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記事一覧

第119回 最終回記念!無料キャンペーン! 7日16時まで!!

マガジン「伊勢物語の誕生の秘密」完結を記念して無料キャンペーンを現在より上記の日程でした…

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第118回(最終回) 安和(あんな)の変と紫式部の誕生。

康保5(968)年8月に安和と改元されました。 その安和2年正月2日、太政大臣実頼(70歳)の邸…

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第117回 安和の変・前夜

康保4(967)年9月、藤原氏(特に今回は兼家が中心?)によって、また騙し討ちの様に、有望な…

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第116回 為平親王の婚礼と村上天皇崩御。

皇后安子の死後、村上天皇は、安子のライバルだった宣耀殿の女御芳子をあまり近づけなくなりま…

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第115回 東宮元服と安子の心配

応和3(963)年2月28日、14歳の東宮憲平親王は元服し、添い臥しとして、同じく14歳の昌子内親…

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第114回 師輔の後継者争いと『伊勢物語』の成立

天徳4(960)年5月4日の右大臣師輔(53歳)の死後、8月22日人事異動が行われ、右大臣には亡き…

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第113回 師輔の死

天徳3(959)年。中納言師尹(40歳:師輔の同母弟)の自慢の娘・宣耀殿の女御芳子は、目尻の下がった可愛い美貌で、古今集1100首を全部暗記するほどの才媛で、更に長い髪が誇張でしょうが、牛車に乗っても先端がまた母屋にあったという事です。村上天皇の覚えもめでたく天皇はよく芳子の殿舎に行っていました。安子は皇后とはいえ、気が気ではありません。何と壁の穴から覗き見ると天皇と芳子がたわむれています。かっとなった安子は土器のかけらを穴から投げつけたという事です。(『大鏡』) この時はさ

第112回 安子立后

天徳2(958)年9月、武蔵守藤原経邦(南家)が亡くなり、それが関係あるのか分かりませんが、…

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第111回 公季(きみすえ)誕生、西園寺家の萌芽

師輔と康子内親王の事実婚状態は続きました。康子内親王は天暦10(957)年12月に内裏の中の承…

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第110回 太皇太后穏子の死と師輔の密通

天暦6(952)年3月、30歳の朱雀上皇は出家し、法皇となります。そして4月には仁和寺へ遷りま…

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第109回 冷泉天皇の誕生

陽成院の崩御の翌年、天暦4(950)年は、村上天皇の後宮に慶事が続いた年でもありました。 正…

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第108回(番外編)姫路・刑部神社に会う。

 四月は「出会い」の月とよく言われます。今年も四月からいろいろな会に入って新しい方と出会…

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第107回 なぜ『伊勢物語』と呼ばれるのか?

949年に陽成院が崩御、950年にその長男大納言源清蔭が亡くなってから、960年までの間に、陽成…

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第106回 筑波嶺(ね)の峰より落つる男女(みなの)川

陽成上皇の崩御後、師輔はある命令を出しました。 「陽成院の歌を全て焼却せよ」 陽成上皇は、少年時代に蔵人だった在原業平から和歌や相撲の薫陶を受けています。相撲は16歳の時、相手をしていた乳母子が事故死してしまってからしなかったかもしれませんが、歌合は晩年まで催していました。ですから多くの歌が残っていても不思議ではないのに、何と上記の『百人一首』第13番の歌1首しか伝わっていません。 「筑波嶺の峰より落つる男女川 恋(こひ)ぞつもりて淵となりぬる」-男女川が次第に水量を増やして