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【第Ⅲ部 日本の台頭(前編)】半導体戦争 要点メモ

こんにちは。
都内でひっそりと生きる専業主夫です。


今回も『半導体戦争』のメモです。

2023年2月発行であること
・新書で購入する場合、税込3,000円以上すること
半導体バブルの影響で需要が高いこと

から、図書館での予約も殺到しており、
1ヶ月以上待ってようやく借りられました。

本作は500ページを超える長編となっていますが、
分かりやすく翻訳されており、すらすら読めます。

この本については

第Ⅰ部 半導体の黎明期
第Ⅱ部 半導体産業の基軸になるアメリカ
第Ⅲ部 日本の台頭
第Ⅳ部 アメリカの復活
第Ⅴ部 集積回路が世界をひとつにする
第Ⅵ部 イノベーションは海外へ
第Ⅶ部 中国の挑戦
第Ⅷ部 武器化する半導体

という構成となっています。

今回は第Ⅲ部
「日本の台頭」(前編)
についてです。
(長くなるので前後編に分けています。)

Ⅰ部とⅡ部のメモについては下記からどうぞ。

※注意※
著者が個人的に重要と感じた
箇所を”引用”した内容となります。

 1980年代は、アメリカの半導体部門全体にとって地獄のような10年間だった。シリコンバレーはすっかり世界のテクノロジー業界の雄のような気分でいたが、20年間にわたる急成長は止まり、今では存亡の危機と向き合っていた。日本との熾烈な競争である。

 アメリカの半導体メーカーは冗談で、日本のことを「カシャ、カシャ」の国、と呼んだ。日本の技術者たちが、アイデアを”丸写し”するために半導体会議へと持ち込むカメラのシャッター音になぞらえた表現だ。アメリカの大手半導体メーカーが日本のライバル企業との知的財産権訴訟をいくつも抱えているという事実は、シリコンバレーのほうがまだかなり先を走っているという証拠としてとらえられた。

 しかし、HP(ヒューレット・パッカード)のアンダーソン(経営幹部)は、東芝やNECを深刻にとらえていただけではなかった。日本製のチップをテストした結果、アメリカの競合企業よりはるかに高品質だという事実に気づいてしまったのである。

 彼の報告によれば、3社の日本企業のうち、最初の1000時間の使用で故障率が0.02%を上回った企業はひとつもなかった。対して、3社のアメリカ企業の故障率は最低でも0.09%。つまり、アメリカ製のチップのほうが4.5倍も故障が多い、ということになる。最下位のアメリカ企業は、故障率が0.26%にもおよんだ。これは、日本の平均の10倍以上悪い数字だ。性能は同じ。価格も同じ。でも故障ははるかに多い。いったい誰がそんなものを買うというのか?

 高品質で超効率的な日本の競合企業からプレッシャーを受けていたアメリカの産業は、半導体産業だけではなかった。終戦直後は、「メイド・イン・ジャパン」といえば「安物(チープ)」と同義語だった。しかし、この安物という評判をはねのけ、アメリカ企業と同じくらい高品質な製品というイメージに置き換えたのが、ソニーの盛田昭夫のような起業家たちだ。彼のトランジスタ・ラジオはアメリカの経済的な卓越性にとって初めて重大な脅威となり、その成功から自信を得た盛田や日本の同志たちは、目標をいっそう高く定めた。こうして、自動車から製鉄まで、アメリカの産業は日本との激しい競争にさらされることになる。

 1980年代になると、家電製品づくりはすっかり日本のお家芸となり、ソニーがその先頭に立って新たな消費者向け商品を続々と発売し、アメリカのライバル企業から市場シェアをもぎ取っていった。最初、日本企業は、アメリカのライバル企業の製品をまね、それをより高品質、より低価格で製造することによって成功を築いた。

 1979年、アンダーソンがアメリカ製チップの品質問題についてプレゼンテーションを行うわずか数ヶ月前、ソニーが同社の5つの最先端の集積回路を組み込み、音楽業界に革命を巻き起こした携帯音楽プレーヤー「ウォークマン」を発売する。

 たちまち、世界中のティーンエージャーが、シリコンバレーで発明され日本で開発された集積回路のおかげで、お気に入りの音楽をポケットに入れて持ち歩けるようになった。こうして、世界で3億8500万台を売り上げたソニーのウォークマンは、史上もっとも人気のある家庭用電子機器のひとつへとのぼり詰める。これはまぎれもないイノベーションだ。そして、それをつくったのは日本だった。

 戦後、日本がトランジスタのセールスマンへと転身するのを後押ししたのはアメリカだ。アメリカの占領軍はがトランジスタ発明に関する知識を日本の物理学者たちに移転する一方、アメリカ政府の政策立案者たちはソニーなどの日本企業がアメリカ市場でスムーズに製品を販売できるよう取り計らった。
 
 日本を民主的な資本主義国に生まれ変わらせるという当初の目的は、成功を収めたのだ。いや、むしろ成功しすぎてしまったのではないか。日本企業に力を与える戦略が、勢い余ってアメリカの経済的・技術的な優位性を傷つけている。一部のアメリカ人にはそう映った。

 ライバルの工場に忍び込むのは違法だったが、競合相手を監視し続けるのは、シリコンバレーでは日常茶飯事だった。それから、従業員、アイデア、知的財産を盗んだとしてライバルを告発するのも。第一、アメリカの半導体メーカーは絶えず訴訟合戦を繰り広げていた。

 たとえば、フェアチャイルドとテキサス・インスツルメンツのあいだで、集積回路の発明者はノイスなのかジャック・キルビーなのかという問題が決着するまで、10年もの歳月を要したのである。

 また、半導体メーカーは、経験豊富な労働者だけでなく競合他社の生産工程に関する知識まで入手しようと、ライバル企業の花形技術者をたびたび横取りしていた。実際、ノイスとムーアはショックレー半導体研究所を去り、フェアチャイルドを立ち上げ、さらに同社を去ってインテルを創設したとき、グローブを含む何十人というフェアチャイルドの従業員を引き抜いた。つまり、ライバルを監視し、模倣するというのは、シリコンバレーのビジネスモデルの要だったのだ。それと日本の戦略のどこがちがうだろう?

 日本企業はアメリカへの販売が許されているのに、シリコンバレーは日本で市場シェアを獲得するのに苦労していた。1974年まで、日本はアメリカ企業が日本国内で販売できるチップの数に制限を課していた。ソニーなどの企業は全世界で販売されるテレビやビデオデッキに半導体を組み込んでいたため、日本は世界の半導体の4分の1を消費していたにもかかわらず、制限が撤廃されたあとも、日本企業はシリコンバレーからほとんどチップを購入しないままだった。

 日本の国営独占電話会社の日本電信電話公社(現NTT)のように、ほとんど国内業者からしか半導体を購入しない日本の大企業もあった。それは表向きにはビジネス上の意思決定だったが、電電公社は当時国有だったので、政治が一定の役割を果たしていた可能性が高い。日本におけるシリコンバレーの市場シェアの低さにより、何十億ドルという売上がアメリカ企業の手からこぼれ落ちていた。

 加えて、日本政府は半導体メーカーへの助成も行なった。反トラスト法の影響で半導体メーカー同士が手を組みたがらないアメリカとはちがって、日本政府は企業間協力を積極的に促した。こうして1976年に発足したのが、政府が予算の半分近くを拠出した研究団体、超LSI技術研究組合である。

 
アメリカの半導体メーカーはこの組合を日本の不当な競争の証拠に挙げたが、超LSI技術研究組合の年間7200万ドルという研究開発予算は、実はテキサス・インスツルメンツの研究開発予算とほぼ同額だったし、モトローラより少ないくらいだった。

 さらに、アメリカ政府自身もまた半導体の支援に深くかかわっていた。ただし、アメリカ政府による資金提供はDARPAからの助成金という形を取った。DARPAとは、投機的な技術に投資を行ない、半導体製造のイノベーションを金銭面で大きく支えていた国防総省(ペンタゴン)の一部門である。

 先進的な製造工場の建設には途方もない費用がかかるので、金利は非常に重大な問題だ。おおよそ1、2年おきに次世代の半導体が登場しては、新たな工場や装置が必要になった。その一方で、1980年代、連邦準備制度がインフレ抑制を試みると、アメリカの金利は21.5%まで上昇した。

 対照的に、日本のDRAMメーカーの資本コストはそれよりもはるかに低かった。日立や三菱といった半導体メーカーは、巨大財閥の一部であり、巨額の長期融資を提供してくれる銀行との関係が深かった。たとえ日本企業に利益が出ていなくても、銀行が返済期間を延長してそうした企業を生き延びさせた。アメリカの金融機関なら、とっくのとうにそういう企業を破産に追いやったであろう。 

 また、日本社会は、巨額の貯蓄を生み出しやすい構造になっていた。戦後のベビー・ブームとひとりっ子家庭への急速な転換により、ただでさえ数の多い中年の世帯が、老後に向けた貯蓄に精を出したからだ。日本社会の頼りないセーフティ・ネットも、貯蓄のいっそうの刺激になった。一方、株式市場などへの投資の厳しい制限によって、国民は銀行口座に現金を蓄える以外の選択肢をほとんど持たなかった。その結果、現金余りの状態となった銀行は、低金利でローンを延長したのである。日本企業はアメリカ企業より多くの負債を抱えていたが、それでもアメリカより低金利でお金を借りられたわけだ。

 この安価な資本を武器に、日本企業は市場シェアをめぐる容赦ない戦いを始める。アメリカの一部のアナリストたちが描く協力的なイメージとは裏腹に、東芝や富士通などの企業も互いに激しい争いを繰り広げた。しかし、無尽蔵に近い銀行融資を得られた日本企業は、損失を垂れ流しつつも、競合企業が破産するのをじっと待つことができた。

 1980年代初頭、日本企業はアメリカ企業より6割も多く生産設備に投資を行ったが、半導体産業の誰もが殺人的な競争にさらされ、大きな利益を上げられる者は皆無に近かった。そんななか、日本の半導体メーカーは投資と生産を続け、どんどん市場シェアを奪っていった。

 その結果、64KビットDRAMチップが発売されてから5年後、その10年前にDRAMチップを発明したインテルは、世界のDRAM市場で1.7%のシェアしか獲得できなかった。一方、日本企業の市場シェアはうなぎのぼりだった。

 シリコンバレーが市場から締め出されると、日本企業はここぞとばかりにDRAM生産を強化しにかかる。1984年、日立は自社の半導体事業に対し、10年前の15億円から大幅増となる800億円の設備投資を行った。東芝は同期間で30億円から750億円、NECにいたっては35億円から1100億円への増額だ。1985年、日本企業は世界の半導体設備投資の46%を占めた。対するアメリカは35%だ。1990年になると、この数字はさらに一方的となり、日本企業が半導体の製造工場や製造装置への全世界の投資額の半分を占めるようになった。銀行が喜んで費用を負担してくれるかぎり、日本のCEOたちは次々と新工場を建設し続けた。

 集積回路をつくるには、リソグラフィ、成膜、エッチング、研磨を、5回、10回、または20回と繰り返さなければならないことも多く、そうすることで幾何学的なウェディング・ケーキのような多層構造が完成する。トランジスタの微細化にともない、化学薬品から、レンズ、そしてシリコン・ウェハーと光源を完璧に位置合わせするレーザーまで、リソグラフィ工程の各部分がどんどん複雑になっていった。

 半導体は「1980年代の原油」だ、とサンダースは言った。「その原油を支配する者こそがエレクトロニクス産業を支配するだろう」。アメリカ随一の半導体メーカーであるAMDのCEOだった彼には、自社の主力製品を「戦略的に重要」だと表現する利己的な理由がごまんとあった。


次回、

第Ⅲ部「日本の台頭」(後編)

に続きます。


それでは、今回はこの辺で失礼します。


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