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味味

急啓

 高校3年の1年間は、どのような意味にしても充実したものではなかったと思う。

 受験勉強は真面目にやっていなかったし、人間関係は様々な方角に崩壊していたし、家でも気怠く過ごしていたし、部活はそこそこ勝ち進んだが7月に引退した。

 そんな人生の出涸らしのような生活の中で、一つだけ楽しんでいたのが昼食だ。剣道部で仲の良かったNとT、それにたまたま気の合ったIを加えた四人で机を並べて毎日飯を食べ、くだらない会話を展開していた。 

 ところで、当時の我が国立理系クラスの治安は最悪であった。授業中に惰眠を貪る者、勉強でマウントを取る者、野球盤の上で甲子園優勝の夢を追いかける者、赤本でバベルの塔を築く者、昼休み腹筋ローラーをする者、そして勉強しない者。最後の一択にカテゴライズされていた私は、その他の最悪に属するクラスメイトと特に仲良くも仲悪くもせずなんとなく1年間を過ごした。

 そんななんとなしの1年間の記憶は驚くほどに薄い。中学一年の時に一瞬書かされた剣道ノート(稽古や試合の反省点などを日記形式で記入し、顧問に提出する名目で配られたノート。実際機能したのは2ヶ月ほどで、初夏には誰も提出しなくなった。)の内容くらい薄い。

 その薄い記憶の中に、今でも忘れられない昼食時のくだらない会話がある。それが「味味」である。

 香料や甘味料の加工技術が向上された現代社会において、人間の味覚は人間の技術によってあまりにも容易に騙されている。

 我々が有り難がって食べているイチゴ味の菓子にはイチゴに似ても似つかない甘ったるい砂糖の味がつけられているが、我々はそのグロテスクな虫を潰して得られたコチニール色素による鮮やかな赤色と、今までの人生で培った人工的なイチゴフレーバーに対する先入観によって当該の砂糖の塊に「イチゴ味」を感じている。

 それで良いのか?我々はそれで良いのか?どう考えてもメロンではないメロン味、バナナを装ったミルク感たっぷりのバナナ味、夏に売ってるという一点のみでしかスイカを感じられないスイカ味…。

 我々はそれらを食べながらそれぞれの果物を想像できるように菓子メーカーに調教されているに過ぎないのではないだろうか。

  私は人々の脳に「イチゴ味」として印象付けられたそれを、「イチゴ味」と呼びたくない。だってそれは我々の意識下で「イチゴ味」に仕立て上げられている『「イチゴ味」味』なのだから。人間が文明の発達とともにコツコツと仕立て上げてきたハッタリ、色と匂いと洗脳的広報によって演じられる大ペテン、工場生産のオルタナティブな果実感、それを我々は「味味」という言葉の定義とした。もう2度と曖昧模糊とした概念の味に騙されないために。

 高校三年生の昼休みという限られた時間にこのような非生産的な会話ばかりしていた我々四人は仲良く全員浪人し、その後も縁を切ることなく今年で連んで6年目となる。23歳の今でも未だに語り種となる「味味」。この縁がいつまでも、こんなくだらない非生産的な会話を、笑いながらしてくれる縁であって欲しい。

 俺たち、友達味味の知り合いなんかじゃない、果汁100%の友達だよな?

草々不一

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