Siri。
「いってぇ!」
鋭い痛みだ。尻。尻の右のほっぺ。
その時は冬服のスラックスを履いていて、その中には「パッチ」…今で言う「ズボン下」を履いていた。そして防寒仕様のボクサーパンツだ。
その日は街に寒波が襲っていて、その時の温度は2℃くらいだったらしい。
それにしてもこの痛みである。
厚着をした下半身でもこの痛み。すぐに思いついたのは「蜂」であった。
蜂には子供の頃だが、地元の山の中へカブトムシを捕獲しに行った時に一度刺されたことがある。
その時は右腕であり、同様に鋭い痛みが走った。
泣き虫だった私は痛みを脳が察知した瞬間、ぼろぼろと声を上げて泣き、山の麓にある祖父の家に全速力で駆けていった。
尻に走った痛みはその時の痛みと瓜二つだったのである。
しかし回りには蜂らしき物体や物音が無い。蜂ならば微かでも「ブーン」といった怪音を響かせるはずである。
そう思ってる間も尻の痛みは衰えず、むしろ強大なものに変容していた。
「うう」
思わず口を出た嗚咽と共に私はその場にひれ伏してしまった。
そこは通っている高等学校の美術室であり、美術部員である私は目の前に備えられたヨーロッパ人の石膏のデッサンに励んでいる最中で、石膏の細部を詳しく見ようと席を立ったその瞬間の出来事だったのだ。
「え、おい?どうした!」
この声は美術部顧問、相澤の声だ。
「尻が…」
「えっ、尻…が、どうしたんだ?!」
「蜂…?ですかね…に刺されたようで、激痛なのです」
「それはいかんな…すぐに保健室へ行こう。立てるか?」
立てない。そして心なしか尻の右側がとても腫れてるように思える。すると、
「うわ…え、お前これ…」
相澤の声が震えている。いつもは糞真面目な先生なため、うろたえる声が少し面白い。そんなことを考えている余裕は無いはずなのだが。
「お前、尻…これ…」
激痛をこらえながら自分の尻を見る。角度的に上手く見えないが、あきらかに、デカい。
別に尻が小さい方ではないが、この振り向いた角度から、"もりっ"としているのが見えるのはおかしい。パンツ、ズボン下、スラックスはその尻の謎の膨張に従順で、その部分は"ぱっつん"と張れているのが分かる。
その膨張は毎秒痛みとともに激しさを増し、すぐさまスラックスがビリリと音を立てて破けた。
「なんだー?!」
相澤はその様子をうろたえている事しか出来ず、その他回りにいた部員たちも固唾を呑んで自分を見ているのが分かる。いつも静かな美術室がざわついている。
まるで風船のように膨張を続ける尻は、それから一時間ほど膨張を続けた。
その頃には美術室にはもう誰も居ず、教室中が私の尻でいっぱいになっていた。
石膏は音を立てて割れ、部員たちのデッサン画や道具も私の尻に圧縮されている。
美術室の廊下にはギャラリーが増え、ついさっきはサイレンが聞こえた。
尻はどんどん膨張を続ける。窓は割れ、そこから膨張した尻の一部が膨れている。
私は教室の真ん中でひれ伏したまま、息をするのがやっとであった。
そんな状態がそれから10分程続いた後、尻は
"バチンッ"
と耳をつんざくような壮大な音を立てて、割れた。
割れた衝撃、音で校舎が揺らぐのが感じ取れた。
私の尻は割れ、不自然に伸びた皮が辺りを覆っている。
それからだ。私の「尻人生」が始まったのは。
この出来事は大きなニュースになり、「尻事件」と呼ばれるようになった。
具体的な原因が不明なこの一件は世の中を恐怖と爆笑に陥れたのだ。
生徒たちが携帯で撮影した"膨張する尻の動画"は動画サイトで1億再生を超え、未だにその数を増やしている。
私といえば、尻の皮を上手く手術し今では何の問題もなく生活をしている。
が、街を歩けば「あ!尻!」「尻マンだ!」と指を刺される。
気を抜けば週刊誌に「尻男の現在!」等といったタイトルで盗撮写真を掲載させられる。
そんな生活に辟易とし、今私は巨大ビルの屋上に立っている。
そう。死ぬつもりなのだ。
これほど不名誉で苦しい生活は無い。誰を、何を責めればいいか分からず、ひたすら自分の尻を呪う生活。疲れてしまったのだ。
外界には通りを走る車が見えた。私は今からあの中へ死体になりにいくのだ。
私は殆ど躊躇いもせず、飛び降りた。
落ちる瞬間、目尻が冷たく感じた。私は泣いていたのだろうか。
と、不意に尻に鋭い痛みを感じた。今度は左側である。
高層ビルから真っ逆さまに落ちる間に尻は膨張を猛スピードで行い、地上に着く瞬間に
"バイイイイ〜〜〜〜ン"
と音を立てて私を救ったのである。
この一部始終を通行人が携帯で撮影した動画はまたもや1億再生を超えている。
私は尻に殺され、また、尻に救われたのである。
そんな私も今では開き直り、TV番組などのメディアに宇宙唯一の"尻芸人"として積極的に出るようになり、レギュラー番組を8本抱える売れっ子タレントになった。
尻の膨張も自分の意思で行うことが出来るようになり、どこの現場へ行っても驚きと爆笑を与えられる。
都内にひっそりとだが家を建て、元アイドルだった女性と結婚し、2児の子供にも恵まれた。
ある日のことである。
生まれたばかりの娘をベビーベットに運んでいた時、娘が大声で泣き始めた。
意味がわからずあたふたしていると、娘の尻が膨張しているではないか。
が、私は不覚にも「これって遺伝性なんだ…」と冷静に思ってしまったのである。
おわり。
こんな駄文をいつも読んでくださり、ほんとうにありがとうございます…! ご支援していただいた貴重なお金は、音源制作などの制作活動に必要な機材の購入費に充てたり、様々な知識を深めるためのものに使用させて頂きたいと考えています、よ!