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ボロのつりざお

多くの学校が、2018年7月21日の本日から夏休みに入るらしい。8月が終わるまで、約40日間の休暇である。
それだけ休みが続く感覚をもうあまり思い出せない。今、それだけの休みを提供されてしまったら逆に不安が募ってしまうだろう。自由を手放しで喜べない程にオトナになってしまったのだ。ああ、なんてつまらないオトナになってしまったのだろう。
そして、そんな不安な気持ちに苛まれてしまうならば、休みはほどほどにして、適度に働いたほうが心の安定に繋がりもする。
なんて、言い訳がましく自分を納得させている。
やっぱり心の何処かで「羨ましいなあ」と思ってしまうのは止められない。

ある小学生時代の夏休み、ぼくは両親の実家がある五島列島へ遊びに行った。よく覚えてないけれど、そこそこ長い期間滞在していた覚えがある。五島には一個下の従兄弟がいて、彼とふたり自転車であちこち回って遊んだ。「エンゼル」というおもちゃ屋さんでおもちゃや花火を買い、子供らしく遊んだ。
今思えば、従兄弟には地元の友達もいただろうに、よくぼくに構ってくれていたなと思う。従兄弟は友達が多いタイプだったろうから、尚更。きっと見えないところで「今従兄弟が来てるから」なんて言って誘いを断ったりもしていたのだろうか。

そんなある日。
「今日は釣りをしよう!」という事になり、また自転車に跨がって商店街にある6畳くらいの広さしか無いエンゼルに陳列されてある「初心者釣りセット」なるものを購入した。確か980円だった。
折りたたみ式の竿と、安っぽいスピニングリール、そして簡単な仕掛け。
僕らの祖父と叔父たちは漁船に乗る漁師だったにも関わらず、そんな安物の釣り道具を買ってる事自体だいぶ滑稽だが、はじめて自分で買った釣り道具だ。愛着が、既にある。これで自分もいっちょまえの釣り師だ、なんて思っていた。
次に釣具店でこれまた安いエサを買い、いざ海へ繰り出した。…が、結果は惨敗だった。

その日の少し前…五島に行く前だ。
ぼくの住む家に例の漁師の叔父さんから「もう使わないやつだから」と、海釣り用の高価な竿をプレゼントされた。当時釣りにハマっていたぼくとしては渡りに船というか(漁師だけに)、とにかく嬉しいプレゼントだった。しかし、バカなぼくにはうまく使いこなせず、宝の持ち腐れ、猫に小判、豚に真珠といった意味合いのものになり、自室の片隅に眠らせてしまうことになった。ああ、せっかくもらったいい竿なのになぁと心の何処かで申し訳無さを感じながら。

従兄弟との釣り遊びを終え父方の祖父母の家に帰ると、その日は皆で集まって食事会(もとい飲み会)が開かれる、とのことであった。畳の上で従兄弟と「どうして釣果を上げられなかったのか」なんて話をしていると、ぼくに釣り竿をプレゼントしてくれた叔父が姿を現した。
叔父はぼくを見つけすぐに「竿、どうだった?」と聞いた。ぼくにプレゼントした竿のことである。
僕は「ぜんぜんだめ!!」と言った。
叔父は「ふふん」と鼻を鳴らして歩いて行った。少しだけ寂しい顔をしていた。

そこでぼくは勘違いに気づいた。
ぼくが「ぜんぜんだめ!!」と評したのは先刻の「初心者釣りセット」のボロ竿のことで、叔父からもらった竿のことではない。
叔父は、自分がせっかくプレゼントした竿を甥にボロカス言われたものだと思っているに違いない。なんてことをしてしまったのだろう。
だけど当時のぼくは、その勘違いを説明する話術を持ち合わせていなかった。大人たちの会話を遮る勇気も持っていなかったし、そのうちタイミングを見計らって、きちんと謝ろうと心に決めた。

そう、心に決めてからもうずいぶん年月が過ぎてしまった。
祖父は他界し、祖母は老人ホームに入居している。そして今年、父も他界してしまった。親戚一同が団欒したあの家は、もう無い。

謝るには歳を取りすぎてしまった。状況が変わりすぎてしまった。
叔父だって、何を今さらと思うに違いない。そもそも、そんなことは覚えていないかもしれない。
だけど、ぼくはいつか必ずこの話を叔父にしたい。
しなくてはいけない気がしている。
したところで何がどうなるわけでもないけれど。

ぼくが心の何処かで今の子供達に、夏休みというものに、「羨ましいなあ」と感じてしまうのは、あの時叔父に勘違いを説明できなかった後悔を取り戻したいと思っているからかもしれない。

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