エンプティ④

16時半。

身支度が終わり、あとはあの場所まで行けばいいだけ。

目的地へは地下鉄を使う。今出れば丁度17時くらいには駅へ着くだろう。

窓の外は不快な雨の音がしている。

雨、薄暗さ、今から自分がやろうとしていること。

相乗して、最高に気分が悪い。罪悪感、とも言えるのだろうが、今はそう考えたくない。そうだ、自分が"こう"してしまう事は"仕方が無かった"のだ。


きっかけは隣町へ買い物に行ったあの日だ。

住んでいる街のお店や公園、なんだか日常の色々なものに飽きてしまって、気分転換を含めて少し遠出したあの日のことである。

あの日は特別天気が良くて、出掛ける前から浮き足立っていた。

隣の町へ行く、ただそれだけのことなのに、珍しくアクセサリーを選んでみたり、あれやこれやと洋服を引っ張りだしたり。

いざ出発、と家の鍵を締めた頃には既にテンションはおかしくなっていて、無駄に8階から階段で下まで降り、人がいないのをこっそり確認してスキップを踏み、駅まで向かった。

地方から都市へ引っ越してきてから、この街に慣れることで精一杯だった。

スーパーに行っても物価が違って上手に買い物ができない。家、マンション…建物が四方八方に生えており、息苦しい。住んでいるアパートでは上の階から子供がはしゃぐ音、泣く声、騒ぐ声。

気が滅入った。何のためにここにいるんだろうと夜中何度も思った。

眠れない夜が明け、昼間やっと眠気が来ても騒音で眠れない。

憔悴し切っていた。

だから、その日の"お出かけ"は本当に楽しみだったのだ。


隣町の駅前には大きなショッピングモールがある。

自分の好きなブランドを数軒回り、フードコートでお茶を飲んだ。

天気の良さとは裏腹にその日は週のど真ん中の平日で、比較的客数は少ないようだった。

こんなに天気が良いのに、みーんな仕事してるのだろうか。

妙な優越感に浸りながら、250円のコーヒーを啜った。紙製のカップにプラスチック製の飲み口が装着されている。

これもまた見た目とは裏腹に美味しくて、小躍りしたい気分になった。

なんて自分はツイてるんだろう!


ショッピングモールを離れ、予め調べておいた古本屋へ向かう。

全国展開されている古本屋なのだが、そういう場所の方が好きなのだ。

何度か信号待ちをし、横断歩道を渡る時は、白いところだけを選んで歩いた。

その古本屋は思っていたより賑わっており、主に若い子たちが立ち読みをしたり、商品を物色したりしていた。

割と広い店内の中、小説のコーナーを探しだして物色を始める。

好きな作家は何人もいる。学生の頃は"本のむし"と言っていいほどの読書家で、時間さえあれば本を読んでいた。

もっとも、ここ最近は誰がどんな本を出しただとか、あのナンバリングタイトルがどこまで進んでいるのかとか、そういうのは全然分からなくなっていた。

ずらりと並ぶ本棚を見ていると、昔の血が騒いでしまって10冊程購入してしまった。

時計を見ると、夜にはまだまだ時間があるので近くに見えた喫茶店へ入ってみることにした。

看板には小さく「透明人間」と書いてあり、それが屋号だと気づくのに少し時間がかかった。

店内は狭く、奥の方にぷかぷかと煙草をふかす人がいるだけだった。

BGMには小さくビートルズが流れており、照明はほどよい明るさ。

これも"アタリ"だと思った。

喫茶店のマスターはその肩書に恥ぬ風体で、口ひげをはやし、小綺麗な格好をしている。

「コーヒーを、ブラックで」と注文すると、心地のよい低い声で「かしこまりました」と聞こえた。

さて、どれを読んでみようかと、机の上に先ほどの本を並べる。

小説6冊、エッセイが2冊、ノリで買った自己啓発と句集が1冊ずつ。

ノリで買ったからにはノリで読むしか無い。まずは自己啓発本を手に取り、読んでみることにした。


ハッと気付き時計を見ると4時間程経過していた。

喫茶店の入り口の外に見える風景は既に薄暗く、夜の到来を知らせている。

いけない、と慌てて帰り支度をしていると、

「もしかして…森さん?」と声がした。

顔を上げると、喫茶店の奥で煙草を吸っていた方がこちらを覗き込んでいる。

よくよくその顔を見ると、あ!思い出した!

「河合くん?!」

「そうだよ!いやぁ、懐かしいなぁ!」


玄関を出、アパートを出る。

雨は相変わらず降っている。ため息混じりで傘を広げ、駅へ歩き出した。

人もまばらな地下鉄の中でスマートフォンを見る。

「今日は17:30。"透明人間"で会おう。」

たった一言のメールだった。

それでも、そのメールは私の希望となってしまっていた。

少しだけ震える指で返信を送った。


「今、地下鉄に乗りました。葉子」

こんな駄文をいつも読んでくださり、ほんとうにありがとうございます…! ご支援していただいた貴重なお金は、音源制作などの制作活動に必要な機材の購入費に充てたり、様々な知識を深めるためのものに使用させて頂きたいと考えています、よ!