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YOSHINOYA BECOME HUMAN

割と久しぶりに吉野家へ赴いた。
店内には腹を空かせた有象無象がキン、と張り詰めた空気感とともにそれぞれ座席についている。どんぶりのフチがどうのこうの…とかいうわけの分からないラジオが流れ、その空気感をより一層殺伐したものに変えていた。

注文が決まり、店員をすいません、と呼びつける。その声を聞いた店員ははい、と元気なのかそうでないのか判断がつきにくい無感情な声をあげ、ぼくのテーブルにやってくる。注文の品を伝えると、以上でよろしいですか、という形式的なセリフを残し、早々に去っていく。
その声や所作もすべてがまるで無感情であり、例えばその店員の腕をグンと掴んだら、ギイ、と鈍い機械の音がするのではないかと不安になった。

「デトロイト ビカムヒューマン」というテレビゲームがある。
人間そっくりのアンドロイドが、世界に当たり前に流通した近未来の物語である。その世界ではまるで家電を買うように人型アンドロイドを購入できるし、警察なんかの公的機関にもアンドロイドが存在している。

吉野家にいる感情を持たない(ように見える)店員に、それと似たものを感じたのだ。
「水」と言えば黙って水を持って来、「おあいそ」と言えば瞬時に計算をしてくれるようなウエイトレスアンドロイド。
アンドロイドが普及する時代じゃない、人間が、まるでアンドロイドのように無感情に働く時代が、きっと目の前まで迫っている。

効率化を望みすぎると人は人で無くなる。
「すいません、注文間違えました」っていう人間臭さを、ぼくらはいずれ疎ましく思うだろうか。それとも愛しく思える器量があるだろうか。

おそらく、無いのだろうな。

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