エンプティ⑦

「僕には好きな人がいます」

暗闇の中、右耳に鳴った言葉を反芻する。好きな人、か。

近頃はそんな単語があることさえ忘れていた。学生の頃なら毎日のように考え、悪友たちと話していたのに。いつからかそんな淡い感情は消え、また、そんな青臭い感情を消すことこそ大人になることだと思い込んでいた。

「河合さんと言って、とても素敵な方なんです」

河合と聞いて遠い記憶の奥がザワつくのを感じた。

『それでね、河合くんがね…』

そうだ、葉子がいつか話していたんだ。その時は昔付き合っていた男の話なのだろうなと悟ったが、あえて深く触れずに話を聞いていた。

さっき木戸はオレになんて言った?

『あなた、森葉子さんの旦那さんですか?』

"森"と言うのは葉子の旧姓だ。なぜこいつが知っているのか。

「僕はある日河合さんに告白をしました。まぁ、振られてしまいましたが。それでもその時の僕はそれで満足でした。」

「ちょちょ、ちょっと待てよ。お前、男が好きになったのか?」

「ええ、そうですよ?続けますね」

同性愛者というのに初めて出逢った。でも不思議と木戸の声を聞いていると驚きが薄れてしまう。オレはこいつの声にすっかり虜になっているらしかった。

「あ、あぁ続けてくれ」

「でもね、一旦人を好きになるとその思いってなかなか消えないんです。分かるでしょ?」

学生の頃に一度だけ告白をしたことがある。相手はほとんど話したことの無い隣のクラスの女子だった。

結果は惨敗に終わったが、"好きだという気持ちをその相手に話す"というのはちょっとした力を持っていて、そこからその子と少しずつ仲が良くなった事を思い出した。まぁ、付き合うことにはならなかったが。

「分かるよ。若いころを思い出しちまった」

「僕ね、あるBARで働いているんです。バーテンダーってやつですね。駆け出しですけど。河合さんはそこのお客さんだったんです。」

「へぇ」

「僕が告白してからも彼はお店に通ってくれました。その、ほんとは気を使っているのに気を使っていないような行動が僕には嬉しかったんです。」

「なるほどな」

「そんなある日、いつもはクールにお酒を飲んでいる河合さんが珍しく陽気にしている時がありました。話を聞くと、先日ばったり学生時代に付き合っていた女性と再会したと言うんです。彼女とLINEを交換し合ったんだ、なんて言って。

本人が仰った訳ではありませんが、きっと僕が振られたのは河合さんの中にその女性がまだいるからなんだろうなと悟りました。

『へー良かったじゃないですか!』なんて言いながら内心は嫉妬でどうにかなってしまいそうでした。

そうして陽気に飲んでいると河合さんはトイレに行ったっきりしばらく戻ってきません。あれですね、酔いつぶれってやつです。今時好きな人に久しぶりに会っただけで酔いつぶれられるなんて貴重ですよ。そこが魅力だとも言えますけど」

このままだと木戸の恋バナを聞くはめになりそうだ。

「わりぃ、要点だけ話してくれねーかな」

「え?あ、あぁ、すいません。つい。こういう話って長くなってしまいますね。ええと、つまり、酔いつぶれた彼を僕が介抱することになり、結果彼の家まで送り届けたのですが、さっきの話を聞いた僕は嫉妬心で彼の携帯を覗いてしまいました。」

「人の携帯見たのか」

「この人を喜ばせるなんてどんな人だろう、羨ましい、ムカつく、そんな感情が胸の中でごった返していました。そこに論理的思考力なんてのはありません。」

「何となく分かるよ」

「河合さんの携帯にはロックがかかっていませんでした。そしてLINEを見て知ったのが"森葉子"という名前です。」

「葉子…」

「彼と彼女のやり取りはジブリ映画の話や読んだ小説の話が主でした。趣味が合う人間とは必然的にそういう話が盛り上がるのでしょう」

「……」

「読み進めていくと、河合さんが陽子さんをお茶に誘っていました。陽子さんも了承し…あとは分かりますね?」

木戸が言う『分かりますね?』の意味は分かっていた。もっと言えば言われる前に気づいていたが、どこか遠い場所の話のように頭に響いていた。

葉子が…浮気ーーーー

確かに今日、あの路地裏で俺は思った。

『いっそ葉子が浮気でもして、それを僕がどこかで嗅ぎつけ、自分は悪く無いと言い聞かせながら離婚をし、同情を集めれば気分は、この焦燥に満ちた胸の内は晴れるだろうか。』

そのどうしようもない願いにも似た妄想が今現実に自分のもとに訪れている。

冷静になれ。頭の中の誰かが執拗に冷静になれ、と訴えている。

「そして?お前はLINEのやり取りで2人の逢瀬の日にちと時間を知った」

「そうです。それが今日、あの時間でした。」

今日。あの時間。雨に濡れた路地裏。そう、こいつは『急いでいる』と言っていた。

確かーー。そうだ、雨宿りに入ったところの壁に時計があった。17:28。

「なるほどな。でも、あの辺にラブホなんかあったか?」

「え?いや、2人はまず喫茶店で落ち合います。っていうか、いきなりラブホだなんてえらく冷静なんですね」

「あ、あぁ。女に浮気をされるとまず『抱かれたか』『抱かれてないか』を考えるんだろう。男はみんなそうだろ?」

「そうかもしれませんが…お強いんですね。」

「話を戻そう。じゃあお前は喫茶店で落ち合う2人を見張っていたのか?」

「見張っていた、と言うのとはまた違いますね。衝動です。そこに理由はありませんでした。気づいたら身体が動いていたんです。」

「で、見張ってたんだろ?」

「…しつこいですね。まぁでもそうなります。」

「それから?」

「ほどなくして2人は駅前の映画館に向かいました。LINEでも話題になっていた映画を観るためです。」

「ほう」

「その後、2人は…ええと、先ほど言っていた…」

「ラブホか?」

「え、ええ。そうです。ラブホ、に入りました。」

「なるほどな。シンプルに映画デートだな。それで?なんでお前と俺が電話することに繋がるんだ?」

「あぁ。ええと。僕を覚えていますか?」

「覚えていますかって…」

ハッとした。そうだ、こいつは"姿が見えない"。

「そうです。僕には姿がありません。僕は、2人が"営む"であろう部屋に潜入しました。この行動にも理由は…」

「無いんだろうな。まぁ多分俺でも姿がないならそうするかも知れん」

「はは、優しいんですね。…それで、まぁ詳しいことは伏せますが、2人が寝たのが深夜2時くらいです。寝静まった後に葉子さんの携帯を盗み見して…」

「もう慣れたもんだな。」

皮肉というよりはからかうつもりでそう言った。

木戸の非人道的とも思える行動に、不思議と怒りも沸かなかった。

「い、いじわる言わないで下さい…。そうして、僕はある人物を探しました。」

「それが、俺か。」

「ええ。このクソ女!とハラワタが煮えたぎる思いでしたから。こいつをめちゃくちゃにしてやろうと思いました。旦那が居ることもLNEの会話で知っていましたから。そうして見つけました。"赤迫哲也"という名前を。間抜けなことに、その名前の後ろには括弧をつけて"夫"と書いてありました。」

「不自然だろ?夫に"夫"って付けるんだよ、あいつは。母にも"母"って書いてるぜ」

「ええ、確かに。他にも"親友"、"中1の同級生"なんてのもありました。」

「忘れっぽいと言っても親族や親友にまでつけなくていいのにな」

「かわいいじゃないですか」

「そう思うか?何年も一緒に居るとそんなのばかりで腹が立つ」

「そういうものですかね」

そうして俺の電話番号を覚えた木戸は、"営み"の部屋を出、自宅へと帰る。

そして自分の携帯電話に入っているオレが投げたワン切りの電話番号を見て驚く。

さっきホテルで覚えた番号と、携帯のディスプレイに残っている番号が同じだからだ。

「混乱しましたよ。なんで僕の携帯にこの番号が、と。ちょっとホラーでしたね。しばらく考えて、夕方の出来事を思い出しました。まさか、あなたが旦那さんだったとは。赤迫さん。」

「驚きだろうな、それは」

「復讐しませんか?」

そのセリフとは裏腹に木戸特有の生ぬるい声が耳元に流れる。復讐。

相変わらず牧歌的なその声だが、嘘のように真面目なトーンだった。そして木戸は続けた。

「透明になれるんですよ、僕。」


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