エンプティ⑥

「ただいま」

玄関を開けた部屋の中は真っ暗で、舌打ちをしながら電気をつけた。

人の気配が無い。出かけているのだろうか。

すぐに脱衣所に入り、びしょびしょに濡れたスーツやワイシャツ、パンツを脱ぐ。

面倒くささで一瞬迷ったが、そのまま風呂場へ行きシャワーを浴びることにした。


シャワーで冷えた身体も温まり、髪をタオルで拭きながらリビングへ向かう。

うちの間取りはリビングとキッチンが連結しており、その奥に寝室がある。2LDKだ。

キッチンには結婚当初悩みながら頼んだ特注のウッドテーブルがあるが、片付けの得意でない葉子にかかればその綺麗な木目も見えないくらいに物が置かれてしまっている。

その片隅に置き手紙を見つけた。


「真智子が出て来ています。今日は少し遅くなります。」

真智子とは葉子の友だちだ。葉子の地元に住んでいて、この辺に来るには高速バスで約二時間ほどかかる。

どうせ2人でオレへの文句を肴にしてダラダラ呑むのだろう。

しかし真智子の性格はあっけらかんとしていて実は好きだ。彼女に文句を言われても不思議と腹が立たないのである。

好きにしろよ、とひとりごちて夕飯の準備(と言ってもビールとつまみだけだが)を始めた。


テレビ画面は毎週コピーアンドペーストしているような内容のクイズ番組を映していた。

特に面白みを感じているわけでは無いのだが、問題が出る度に答えを考え一喜一憂している自分がいる。ほろよいとはそんなものだ。

不意に夕方の記憶がよみがえる。

『僕の名前は"木戸"です。すいません、ほんとうに、今はこれで!』

あの独特で緩い声がまだ耳の奥に残っていた。

"声"というのは人間関係において割りと重要な物だと思う。その声で謝られたら許してしまうというのもどこかにあるし、逆にその声で謝られても全然許したくないってことも、きっとある。

木戸の声は完全に前者であり、そして多分葉子の声は後者だ。

ふつふつと悪の塊みたいなものが心に湧いた。それはイライラに変わり、口に運ぶビールの量が増える。

気づいた時には携帯電話を持ち、木戸にワンコールを飛ばしていた。


「やはり、かけてきてくれましたね」

枕元の時計を見る。短針は「3」と書かれた数字を指している。

ぼんやりとした頭の中で"あの声"が響いた。

木戸にワンコールを飛ばした後のことをよく覚えていない。分かるのは、ここは自分のベッドの上で、今耳元には自分の右手で持つ携帯電話があるという事だ。

「もしもし?」

暗い部屋の中に自分以外の存在は認められなかった。深夜の3時。

葉子はまだ帰ってきていないのか。

「えーと、もしもし?」

「あ、あぁ、すまない」

「深夜遅くに申し訳ございません。夕方"お会い"した、木戸です」

「オレは"会った"っていう気がしねぇけどな」

「ですよ、ね。今日は…あ、昨日か…ほんとに申し訳ございませんでした。」

「いいよ、それはもう…ていうか電話、今じゃないとダメか?すっげぇ眠いんだけど」

「今がいいですね、もちろん」

「もちろん?」

「実はあれから色々とあって今帰宅したんです」

「あれからって…あの時確か17時半くらいか?なにしてたらそんなに遅く…」

「あなた、"森葉子"さんの旦那さんですか?」

「は?」

寝耳に水とはこのことで、寝ぼけていた頭の中は、もうすっかり冴えてしまっていた。

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